ワタクシ流☆絵解き館その210 名将・小早川隆景の、揺れている肖像イメージ
寸分の油断も許されなかった世を、戦塵を払ういとまもなく生きた小早川隆景は、最後には秀吉が重用した豊臣家大老となり、戦国期の大毛利氏を束ねて、実質には東の徳川家康に並び立っていた武将であるが、このように当時の第一級の人でありながら、いくつかの肖像画を見てゆくと、その特徴、雰囲気が、たとえば織田信長のように、肖像画が何種類かあっても、ほぼ共通する特色があるのとは異なり、同じ人の顔なのか?と感じさせるものがある。
高名な絵師に自分のきらびやかな肖像を描かせ、後世に伝えようとする積極的な意思が本人になく、必要最小限でのみ肖像を残したことを示すのだろう。
その中でも、この顔と思って間違いはないだろうという決定版を先ず掲げよう。最も世に流布している肖像である。
小早川隆景の墓がある小早川氏の氏寺米山寺(べいさんじ)に収まっている。
京都大徳寺の塔頭黄梅院は、秀吉が天正17年(1589)に増築し、「黄梅院」と名付けた。隆景は庫裡、鐘楼、客殿などを寄進している。豊臣政権の重臣でもある隆景は、お家保身のためには秀吉の絶大な権力を慮って、寄進という名目で上納する必要があったのだろう。
その黄梅院にあるのは、下の「追善茶」のポスターの肖像。俳優の内藤武敏さんの顔をふと思い出した。米山寺蔵の顔よりやや若い気がする。
肖像画そのものの来歴にまではたどりつけなかった。
小早川家の断絶の後、実家の毛利家に伝わった肖像が下の図版。隆景在世中に描かれた。近年公開されるようになった肖像である。
米山寺蔵のものより、やや神経質そうな表情をしているが、基本の特徴は似通っていると言えるだろう。
隆景の死因はわかっていないが、急死であった。医学的見地から分析をすれば、この肖像から死因の一端が推測できそうな気がする。
「この像は、隆景13 回忌を迎えるにあたって作成されたものです。 米山寺蔵《絹本著色小早川隆景像》や京都大徳寺黄梅院蔵のものと粉本 ふんぽん は同じで、米山寺のものよりやや年老いた姿に描かれており、黄梅院蔵の像に近いものです」と三原市の文化財紹介で説明されているのが下の図版。
仏通寺は隆景が修復興隆に力を注いだ古刹。
見比べると、京都大徳寺黄梅院蔵の肖像のアレンジとわかる。
下の図版の栗原信充の画は、独創と言うべきものだろう。粉本すらなく、人物イメージのみに頼ったのではないかとしか思われない。
三原市の郷土史家で、三原市立図書館前身の私立図書館を建設した澤井常四郎の著書に、宗光寺に伝わるとキャプションのある隆景像が下の図版。米山寺のものとは別人の感がある顔である。
三原市宗光寺の所蔵する隆景像がもう一点。上の図版のものとは違うようだ。かなり劣化している。
JR三原駅北の片隅に置かれた銅像が下の図版2点。かなり、制作者の理想イメージが入り込んでいるようだ。面長が隆景の特徴のひとつだが、この銅像ではふっくらと丸みを持った顔になっている。
制作依頼者の意向も入っているのだろうか。説明がなければ、隆景像とは気づけない。
昭和41年春の制作。制作者は、尾道出身の彫刻家、矢形勇。
銅像は、この作品のみであろう。他にある話を聞かない。
読み物の挿絵に登場する隆景は稀だ。文禄・慶長の役における合戦、碧蹄館(へきていかん)の戦いの場面。智将の名で語られる隆景の、実戦の場面での、人生のクライマックスをなす場面と言うべきか。この戦いでの心労が、隆景の死を早めたはずだ。
隆景がこういういさましい姿で語られるようなイメージは、一般的にはないだろう。
令和4年11月 瀬戸風 凪
setokaze nagi