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和歌のみちしば ―「あひみてののちの心」その系譜。

① あひみてののちの心にくらぶれば昔は物を思はざりけり 

                                権中納言敦忠 ( 藤原敦忠 ) 「小倉百人一首」

② 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

                         北原白秋 大正2年 ( 1913年 ) 歌集『桐の花』所収

③ 薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ

                            岡井隆 昭和50年 ( 1975年 ) 歌集『鵞卵亭』所収

いずれも名歌である。歌人それぞれを代表する歌であろう。
岡井隆の歌は知名度では前二首には及ばないだろうが、現代短歌の実作者を志す者は、必ず通ってゆく歌と言ってもいい。
この三首を並べた理由は、場面はそれぞれに違うが、同じ思いをうたっていて、系譜を感じさせるからだ。
その思いとは、恋が成就したあとの一種虚無の思いとも言えるものである。藤原敦忠の名歌にある「あひみてののちの心」とはそういうものだと思う。そして、白秋も岡井隆もその心をテーマにしている。
言い換えれば、元には戻れないさびしさというものだ。

① 藤原敦忠の歌の私の解釈

 権中納言敦忠 ( 藤原敦忠 )

多くの解説書は、この歌の解釈をこう述べる。
あひみてからは、恋しさが切実になり、ますます恋しくて、あひみる前の思ひに比べようもない。あひみる、の説明は必要あるまい。
しかし私はこう解釈する。
濃密な関係ができたあとは、何も手が付かない虚脱、すぐにでも逢いたくなる煩悶、相手が自分の理想のとうりであってほしい執着、そんないわば混濁した思いが襲ってくるのである。ただ恋い焦がれていただけのときは、なんと甘やかなばかりの思いに満たされていたことだったろうか。

② 北原白秋の歌の私の解釈

北原白秋 明治43年 ( 26歳 ) 

この歌の場面を相当の間、こう思っていた。
男が女の帰りゆく後ろ姿を見ている場面で、さくさくと雪を鳴らしているのは女であると。けれど、それは違うと気づいた。去りゆく姿を少しだけ見送ったあと、踵を返し、舗石に積もった朝の雪を踏んでいるのは男で、女の姿はもう見えないのだと。
夫ある女性との道ならぬ恋という、この歌の背景を知らなくとも、女性を返したあとの虚しさを埋めたいような、きぬぎぬの朝の名残を断ち切りたいような思いが男にあるのを、「雪よ林檎の香のごとく降れ」という表現からは感じ取れる。男は、苦さを噛みしめている。
恋の初心に立ち返りたい、踏まれて泥雪となった道のような自分の逢瀬、そのひりひりとした思いを、無垢な雪の幻想で、浄化してしまいたいという願望をうたっている。

③ 岡井隆の歌の私の解釈

岡井隆 1985年 ( 57歳 ) 

「薔薇抱いて湯に沈むとき」の薔薇に、比喩として愛人を見るのは、この歌の浪漫性を最もよく感じとる解釈かもしれない。官能性の強い場面だ。
しかし私は、浮世の憂愁を忘れられる陶酔とでもいうべき感覚ととるのが、薔薇の比喩を解釈する上での本道ではないかと思う。薔薇を形容にするような甘やかな時間に包まれて、と読み替えるのがふさわしく、そういう読みの方が歌の世界が深くなる。

「あふれたるかなしき音」とは、浴槽から流れ落ちる湯の音なのだが、湯がすべて排水口に消えたあとの、一瞬の空漠までを含めての哀しき音なのだろう。いっしんの思いの果ての逢瀬の中で、反動のように男の心に生まれる憂いを、「かなしき音」を聞いてしまう醒めた精神に重ねている。
歌の背景を知るのは、鑑賞上必須のことではないが、あえてこの歌が詠まれた状況を知って読むのも、愉しみであるのは確かだ。岡井隆の年譜に重ね合わせてみると、一首にあるのはこんな心境か。

( 職場も家庭もふり捨てての愛人との逃避行。愛を貫いた男を、人は幸せな男と羨みもするだろうし、また一方では愛欲に翻弄された愚かな男と思いもするだろう。だが、世の人よ、あひみひてののちの心とはかくも苦いものであると、私が今気づいているとは思わないでくれ。何と幸せな男かとだけ思い続けていてほしい )

上の三首に共通するのは、あひみるまでのひたむきな純心を、あひみてののちは、もう持ち得ない悲しみである。
岡井隆の歌は、得恋を意味する「あひみる」、きぬぎぬの別れを意味する「かへす」の、男女の仲において最も感情が昂る歌のみやびを演出せず、薔薇という象徴によって、ある意味では言葉を濁し、その苦さを噛みしめる心を「人知るなゆめ」と、明快に吐露している。
相愛の思いが、二人だけの相  ( あい ) 聞こえの謂である《相聞》としてはうたわれず、「人知るなゆめ」と周囲の目に対しての独白で歌を閉じるのは、社会の通念からはみだした恋により課される科 ( とが ) を暗示している。

岡井隆の代表歌をさらに引こう。 
「歳月はさぶしき乳を頒 ( わか ) てども復 ( ま ) た春は来ぬ花をかかげて」
                   1978年『歳月の贈物』
歌意はこういうことだろう。
時の移りゆきは、人のこころを少しづつ宥( なだ )める。痩せていた肉にふくらみを回復させる乏しい乳のような働きで。けれど季節の巡りゆきによって、真っ先にうたいたいこころは甦って来るのだ。それを私にとっての、春の訪れと信じたい。

この歌は、「薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ」の背景にある、歌壇からの離脱逼塞という状況を一転させたことを象徴して詠んでいる。その意味では、反歌の位置にあると言ってもいいだろう。
それゆえに「歳月はさぶしき乳を頒 ( わか ) てども」の短歌は、上に述べた、「あひみてののちの心」の系譜を引く歌には漂っている雲を、吹き払う風なのであり、そしてこの歌もまた、古歌にその水脈を求め得る歌であると思う。
その水脈もまたよく知られた名歌を含むのだが、それは別の機会で語りたい。
                                                              令和6年8月           瀬戸風  凪
                                                                                                       setokaze nagi
  







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