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俳句のいさらゐ *◻* 松尾芭蕉『奥の細道』その三十四。「草の戸も住替る代ぞひなの家」

 白河の知らずともいはじ底清み流れて世世にすむと思へば 
              「古今和歌集」666番 平貞文 

                                   上の和歌では、すむは、住むであり澄むでもある掛詞。この「すむ」の掛け方は、和歌ではしばしば使われ、この掛かり方を意識するのが、「すむ」の出て来る歌の読み方であると言っていい。
芭蕉の「草の戸も住替る代ぞひなの家」の「住替る」も「澄み変はる」を掛けていると私は思う。そう考えれば「草の戸」は、自分の庵を卑下して言っただけでなく、「草案」とか「草稿」などと使うときの、完成されていないもの、粗々しいもの、という意味の《 草 》を言うために用いているつながりが出て来る。そして「代」は「世」を掛けている。

もちろん主たる俳意は、自分のわびしい草庵を手放せば、雛飾りを置くような家族が入れ替わって住むのだなあ、という寂寥感であるのは動かないのだが、上の俳句は、「草の戸も澄み変はる世ぞ」という読み替えが出来、それは、奥州行脚の首途に当たって、これまで詠んで来た俳諧を脱し、澄明な新しい俳句の境地を獲得する意志表示と読めるのだ。そして、澄み変わると読めば、結句の「ひなの家」の明るいイメージに響くだろう。

以前の記事でも述べたが、芭蕉は『奥の細道』において掛詞の技法を意識して使っている。次のような具合に。
あらたうと青葉若葉の日の光  🔹日のひかりと日光山
早苗とる手もとや昔しのぶ摺  🔹昔偲ぶとしのぶ摺り
まゆはきを俤にして紅粉の花  🔹繭吐きと眉掃き
涼しさやほの三日月の羽黒山  🔹ほの見か月と三日月
蛤のふたみに分かれゆく秋ぞ  🔹蓋と身とふたつ身と二見 (ケ浦)

掛詞は俳諧を豊かにするという信念が、芭蕉にはあったと言えるだろう。「草の戸も住替る代ぞひなの家」もまた、その工夫を読み取るべき俳句である。
                    令和6年9月              瀬戸風  凪
                                                                                    setokaze nagi


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