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ワタクシ流☆絵解き館その209 「白馬賞」 青木繁・幻の受賞作品へのアプローチ ⑦⇒「一部の外道 ( 草稿 ) 」

明治36年第8回白馬会の白馬賞受賞作品で、今日行方が知れず、どういう絵かもわかっていない青木繁の絵を推測する続編。拠り所にしているのは、精華書院「明治36年第8回白馬会展出品目録」である。
今回は、目録№321と325の二作品、タイトルはどちらも「一部の外道 ( いちぶのげどう )草稿 」
今回の推理は無理筋といっていい。以下は、ただ直感で述べるだけなので、それを予め断っておく。

■ 最大の難問タイトル

「一部の外道」
正直なところ、このタイトル情報だけでは推定できないと匙を投げるべきだろう。オミットしようかと迷った。しかし、踏み込んだ森だから、どこかに出口を見つけたい。そんな気分だ。
「外道」が特定単一の事象を指すのならまだしも、その概念の網は広い。内道に入らないものはみな外道なのだから。

そもそも外道とは内道 ( ないどう ) に立つ者からの、それを異端視する蔑んだ言い方である。内道とは?仏教のことである。仏教の隆盛によって、仏教側の視点からのこの言い方が定着しているわけだ。
話がこみ入るので、外道の定義はここまでにして、青木が絵の題材としたのではないかと考える候補を先ず挙げよう。
それは、仏教から見れば邪宗―つまり外道の一宗教であるジャイナ教の説話ではないかと思う。

推測する上での視座は、次のとおり。
1.教義の叙述よりも、教祖周辺の人物をめぐる説話、とりわけ建国神話と
  言ってもいいような話に、大きな興味を持っていたであろうということ
2.   霊力、神秘性という点に着目して、他の絵でも題材にしていること
3. 古代インド6派哲学の創始者のうち、サーンキヤ学派のジャイミニとミ
  ーマンサー学派カピラを、目録№310の「闍威弥尼と迦毘羅」で描いて
  いると思われるが、その二元論に対抗する相対主義の思想 ( =ジャイナ
        教の特徴 ) にも学びの範囲が広がっていたであろうということ

ジャイナ教の聖典 「カルパ・ス-トラ」 中の教祖マハ-ヴィ-ラの姿 
西インド   15世紀末~16世紀初

■ ジャイナ教「カ―ラカ師の物語(カーラカーチャーリャ・カター)」

筆者の考える、青木の目に止まったジャイナ教の説話とは、「カ―ラカ師の物語(カーラカーチャーリャ・カター)」で、青木好みの場面がでてくる読み物である。
「カ―ラカ師の物語」とは?
カ―ラカはある国の王子だった。ある日、ジャイナ教の高弟の教えを聴いた。感銘し、さっそく入門出家する。ところが、同じく出家していた妹に恋したウッジャイン国の王ガルダビッラが、求愛を拒んだ妹を拉致する。
カーラカは王の打倒に立ち上がるが、ガルダビッラに阻まれる。このあと、いくつか存在するテキストごとに、ストーリーが異なるらしいが、筆者が目に止めたのは、カ―ラカが、煉瓦の窯場で、煉瓦に魔法の粉をかけて金に変えることで軍資金とし、妹を盗んだ王ガルダビッラを打倒するというストーリーだ。カ―ラカは、別の王を推戴して国を樹て、自分の一族はこの国に住んだという。

■ 第8回白馬会展の他の出品作との類想点


「ワタクシ流☆絵解き館その183《白馬賞》 青木繁・幻の受賞作品へのアプローチ ⑦」で取り上げた、出品目録出品№307の「僧伽羅 ( シンガラ ) 」
の記事で、僧伽羅は、自分を閉じ込めた羅刹女国を攻めて、新しい国を建てる、というストーリーを持つ人物であることを述べた。その話に通い合っていないだろうか。


「ワタクシ流☆絵解き館その194《白馬賞》青木繁・幻の受賞作品へのアプローチ④」で取り上げた、出品目録出品№311の「唯須羅婆拘楼須那 ( ユースーラセーナクルシュナ ) 」では、クリシュナ ( クルシュナに同じ ) は、幼い時から怪童としてヤムナー川に住む毒竜カーリヤを退治するなど、さまざまな奇蹟を行い、ついにはマトゥラーの悪王カンサを殺して人民を救った英雄として描かれることを述べた。その話にも通い合っていないだろうか。

「蓮の上に坐るクリシュナ」(部分)ビーカーネール派 インド 18世紀前半 東京国立博物館蔵


「白馬賞」受賞の対照作品である出品目録出品№327「黄泉比良坂」では、イザナギノミコトが、黄泉からの脱出の際、そこにあったクロミカヅラを投げるとエビカヅラノミ ( すなわち葡萄 ) になり、さらには桃の実を投げて、魔性の果実に変え、追い来る黄泉醜女の関心をそちらに向けさせる、という場面を描いている。この下りも、霊力を用い、物を変えてしまうという意味で、カ―ラカが、煉瓦の窯場で、煉瓦に魔法の粉をかけて金に変える場面に相似ていると感じる。

■ ではどんな場面が描かれていたと想像するか

これはもう全く分からないと言うしかない。妹を盗んだ邪悪の王に立ち向かう雄姿か、などと想像するだけだ。
青木には、こののちに「日本武尊」という絵がある。こういうイメージを建国神話を思うときに持っていたかと、ひとつの参考に考えることはできるが、根拠は何もない。

青木繁「日本武尊」油彩 1906年 東京国立博物館蔵

青木の出品作以降今日まで、「一部の外道 ( 草稿 ) 」といったタイトルで発想されるような絵は思いつかない。
アジアの宗教的要素を持った絵画が、いくつかは見られる明治後半の画壇だが、青木の「一部の外道 ( 草稿 ) 」は、その時代にあっても、極めて特異な絵柄であったはず、ということだけは確かに言えるだろう。
                                 令和4年11月 瀬戸風  凪




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