俳句のいさらゐ ⪦⁜⪧ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十九。「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」
芭蕉が金沢で詠んだ俳句を取り上げる。
① 塚も動け我泣声は秋の風
この俳句は、芭蕉の金沢の門人一笑への追悼である。
そして、それに続くのが
② 秋涼し手毎にむけや瓜茄子
である。今回はこちらの俳句の解釈記事。
以下①②として表記する。
ひとつの疑問がある。
この両句に連続性があるのかないのか
ということだ。②の前書きには、「ある草庵にいざなはれて」とあるだけで、読者には、背景はわからない。
①の俳句が、金沢へ来て知った期待の門人一笑の若すぎる死を嘆くものであるのに対し、②の俳句は、諸書の解釈によれば、門人たちによってふるまわれた秋野菜のみずみずしさを褒める、弾んだ気持ちで詠んでいるという。
その解釈からは、① ②の俳句には連続性はなく、悲嘆と歓喜なのだから、① ②は、意図して対照させたということになろう。
金沢では悲嘆にもくれたが、門人たちの手厚いもてなしは何より心和むものだった、という意味で二句を並べたと理解するのは、無理のない理解かもしれない。しかし、それが『奥の細道』の構成上必要なのだろうか、とも思う。
そういう解釈を知った上で読み直してもなお、①の前文で、一笑の死を金沢に来て知ったこと、一笑の追善法会に参列したことを述べているその気分が、②にも及んでいるというふうに読めてしまう。
ただし、時系列で見れば、
②の方が先で、旧暦七月十五日に金沢に着き、廿日 ( 二十日 ) に斉藤一泉宅で行われた門人たちとの句会で詠まれた俳句であり、
①は金沢着の一週間後、廿二日 ( 二十二日 ) の追善法会で詠まれている。
俳句の並べ方としては、②を先に置き、そのあとで前文を添えて①の俳句を置くのが時間系列上では正しいのだ。
それを芭蕉は逆にした。逆にしたところに、金沢に来て初日のうちに、一笑の死を先ず知ったことによる悲嘆の気持ちがあって、②の俳句を詠んだのだと芭蕉が言っているように思うのだ。
なお曽良の「随行日記」にも「俳句書留」にも書かれていないが、金沢の人半化房蘭更が著した『俳諧世說』( 天明五年 ) の中の「芭蕉翁風雅の志を示す説」という一文に金沢での芭蕉の言動が記されている。それを元に、②の句の背景をアレンジして述べている平易な文章があったので、下に引用する。
『俳諧世說』は、著者の主観による道徳説話的な文臭があり、ここに記述された芭蕉の姿を信用していいものかどうかはわからない。
ただ、この逸話を信用し膨らませて想像すれば、一笑の死を知ったばかりで、過剰とも芭蕉には見えた接待を受けても、浮かれた気分に浸りきれない思いがあったのかもしれない、という答は引き出せる。
以後の対応において、門人たちは簡素な食事に替えたと「芭蕉翁風雅の志を示す説」には書かれている。
その見方を念頭に置きながら、斉藤一泉宅で行われた門人たちとの句会で出された俳句をふりかえってみる。
芭蕉の「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」は、この句会の発句で、この日出された句形 ( 初案 ) では、「残暑しばし手毎に料れ瓜茄子」だった。意は、『奥の細道』の最終形と等しい。各々が、自分流に手に取りいただこうではありませんか、という呼びかけだろう。
それを受けた斉藤一泉の脇句は、伝わっている句形が二案あって、「みじかさまたで秋の日の影」(『袖草子』)と「みじかさまだき秋の日の影」(『一葉集』)。「待たで ( 待たないで ) 」と「未だき ( まだ、ならないで ) 」では意味が異なるが、芭蕉の初案「残暑しばし」に、かすかに気配が漂い始めている秋の気分を「秋の日の影」でつないだところに主眼があるだろう。
そこで思うのは、「秋の日の影」という措辞の持つイメージだ。
「霧うすき秋の日影の山の端にほのぼの見ゆる雁のひとつら」 『風雅集』
「秋の日の山の端とほくなるままに麓の松のかげぞすくなき」 順徳院
上に、二首古歌を例に引いたが、その核心を簡潔に言えば、《おぼろ》であり《弱々しい》ということだ。
句会自体の統一色調は、発句脇句でほぼ決まる。斉藤一泉は、芭蕉の心中を吹く愁風を感じ取ったと言えるのではないだろうか。
つまり、私の解釈はこういうことになる。冒頭に挙げた疑問の答としては、①②の両句に連続性がある、ということだ。
芭蕉は、斉藤一泉宅での句会を始めるに当たり、一笑の若き死を悼んだ。そして門人たちにこんな思いを改めて述べた。
すでに一笑が亡くなって月日は過ぎてはいるが、金沢でその死を知った自分は、故人を弔って、金沢にいる間だけでも精進したい思いがある。饗応いただいた食は貪ることをせず、質朴な食し方でありたい。
『俳諧世說』に記されているような、饗応のご馳走に不機嫌になって強くたしなめた、といったことは芭蕉はしない。ご馳走に与った晩は、感謝のことばを述べた上で堪能しただろう。それが人としての当然の倫理である。芭蕉は、俳諧師としては、矜持を持ちつつアウトサイダーの面を持つが、人事交渉の上では、紳士であり誠意の人である。両面備えているゆえに、良識ある人たちが門下に集った。
初日の饗応に感謝しながら、金沢蕉門の枢要の門人には、以後は精進したい思いを告げていたのであろう。そういう気持ちが、後日の句会での発句「手毎にむけや」の措辞に現われていると私は解釈する。
だからこそ、詠句の時系列にこだわらず、①②の並びで、①の前文が②にも響くように配置したと思う。
そして、『奥の細道』でのこのあとの俳句に、「あかあかと日は難面もあきの風」が配置されているのは、一笑を悼む気持ちを引きずったまま金沢を立った、という意味へとつないでゆくためだろう。
令和6年11月 瀬戸風 凪
setokaze nagi