さてもさてもの日本古典 🔮『平家物語』③ 人はいつも敗者の言動に引き付けられる
前回の記事で、「平家滅亡後も、平家一門でありながら生き残った者の姿を語るところが、『平家物語』が、単に平家の興隆と滅亡を対照的に描いた叙事詩にとどまらない要素をなしていると思う」と書いた。その目線で眺めていると、壇ノ浦の戦いで平家の抵抗が止んだ後、生け捕られた者の氏名には、トップもおり、なじみのない名も並列で出て来るのに目が止まる。
☸ 法勝寺執行能円
先ず、なじみのない名ながら大きな存在なのは、法勝寺執行能円。能円は運命の変遷で後年、天皇の外祖父にもなった人だ。異父兄姉に平時忠、平時子がいる。時子の夫、つまり姉婿清盛の引き立てがあったせいだろう。白河院政期に造られた六勝寺の内最大の寺、法勝寺の執行になる。ここが、この人の絶頂期。以後平家の都落ちとともに、下り坂人生を歩む。
そういう人が、晩年天皇の外祖父になったのは以下の理由である。
能円の妻( 藤原範子 )は、高倉天皇の皇子 ( 安徳帝ではない別の皇子 ) の乳母になっており、また範子と能円との間に生まれた娘、在子は後鳥羽帝の寵愛を受け皇子為仁親王を生む。
なお妻、範子は、平家都落ちには加わらず夫とは別れて都に残った。娘、在子ともども都落ちに加わっていれば、後の展開はなく、生け捕りの者たちの名に、能円の妻と娘の名として出て来るだけのことであった。
平家の引き立てによって栄華の立場に立った者として、平家を見限れなかった ( ※都に残った場合、法勝寺の執行という地位には留まれなかったのであろう。見栄がじゃまをしたと言える ) 能円よりも、毅然として落ちてゆく夫を見送った妻、範子の生き方の方が、一編の物語になり得る面白さがあるだろう。
為仁親王は1198年に即位して土御門帝になったので、能円は天皇の外祖父ということになった。しかし、土御門帝の御世になってすぐ没している。
年譜で示すと、1185年壇ノ浦で捕虜となり備中国流罪、1189年赦免帰洛、没年1199年。かっての罪びと ( 朝廷に背いた罪 ) ではあるが、もう少し長生きすれば、多少は外祖父として日の目を見たかもしれないようにも思う。
📌 しかし、『平家物語』は能円には全く関心を示さない。主体的生き方という姿がこの人にはない。『平家物語』で、しみじみと後を引くような熱のこもったことばを発し、生き生きと語られているのは、背負いきれない大きな役割を自覚し懸命に果たそうとしている人たちだ。
🍂 平宗盛
トップの方は言うまでもなく平宗盛。清盛三男の嫡流。生け捕られた者の内、最高の官位を持つ大物である。当然、壇ノ浦に沈むべき人であった。
敗軍の将ながら安徳帝に付き添う形で都に戻り、帝の身の安泰を確保するための弁明をするつもりで生き残ったのなら名目も立ったのだが、肝心の帝は入水しながら、一門の総帥の身で生け捕られた、というのは、その意図もなかったと思うしかなく、ずるずると死に損ねたとしか言えまい。
また、頼朝の処へ連れて行かれたとき、父清盛が果たした役割の大きさや、清盛の情 ( 平治の乱で頼朝の死を免除したこと ) が、今日の頼朝の地位をもたらしたことを滔々と述べて一矢報いていたならば、そこで生け捕りにされても生きながらえた価値が生まれ、敗れたりと言えどあっぱれ宗盛、の評価も与えられたはずなのだ。ところが『平家物語』の宗盛は、勝利者の前に項垂れて、ただ哀れな敗者に終始している。
📌 しかしそうであるがゆえに、古今東西普遍に通ずる人間臭さがある。
命ある事の無常を説くには、死ぬべき身で、主体的な死に方の出来なかった人物を引き合いにして語るのが訴える力は大きく、その意味でこれ以上ない適任者。それが『平家物語』の宗盛である。仏教訓話として『平家物語』を見るなら、宗盛は生け捕りの後に俄然光彩を放っていると言える。こんな姿が述べられている。
義経が鎌倉の頼朝に受け入れられず、宗盛父子を連れて京への送還途中、宗盛は斬首も近いと感じ取り、義経が招いていた大原の本性房湛豪という聖に向かっていう。
【 🟢 原文 】
抑も右衛門督は何処に候ふやらん。たとひ頭をこそ刎ねらるるとも骸は一つ席に臥さんとこそ契りしか。この世にてはや別れぬる事の悲しさよ。この十七年が間一日片時も身を離されず京鎌倉恥を曝すもあの右衛門督故なり。とて泣かれければ ( 以下略 )
【 🔵 現代語訳 】
息子 ( 右衛門督 ) 清宗はいったいどこにいるのであろう。たとえ二人が首を刎ねられても、同じ場で骸となることを約束していたのに。
それなのに、まだ命あるこの世で早くも別れて、その約が果たせないことになってしまったとは何と悲しいことだ。
私がこの十七年間、清宗とは片時も離れずに暮らし、生け捕りにされて京に、鎌倉にと恥を晒してきたのも、あの息子清宗がいたからなのに、と泣かれたので ( 以下略 )
📌 平家総帥として見れば何とも不甲斐なく、栄華の日々に、もののふの潔さを全く失ってしまった平家一門が没落したのもむべなるかな、と思わせるに足る象徴的な姿にも見えるし、一方視点を変えれば、断ち切れない未練、焼き付くような心残りという、人のありのままの姿でもある。
「名のらずとも首をとつて人に問へ。見知らうずるぞ」という敦盛のことば、「見るべきほどのことは見つ」という知盛のことば、のような、何度も繰り返し味わい、物語的陶酔感に誘われる名言ではないけれど、宗盛の未練たっぷりのこのことばは、敦盛や知盛のことばより、ずっと近しく、肯首するしかない気にさせられる。
📘 宗盛は、清盛の子としてその薫陶を受けたのが疑わしく思われるような、土壇場における覚悟の欠如が目立つ人物であったのは、公家の日記などの研究からわかるが、『平家物語』は、宗盛のその部分を実態以上にデフォルメして、人間の弱さ、執着心を映し出したのであろう。それは次の仏教的悟りを言いたいがためである。本性房湛豪は宗盛にこう諭している。
【 🟢 原文 】
善も悪も空なりと観ずるが正しう仏の御心に相叶ふ事にて候ふなり。いかなれば弥陀如来は五劫が間思惟して発し難き願を発しましますに いかなる我等なれば 億々万劫が間生死に輪廻して宝の山に入りて手を空しうせん事 恨みの中の恨み おろかなるが中の口惜しき事に候はずや。ゆめゆめ余念を思し召すべからず。
【 🔵 現代語訳 】
善も悪も空であると正しく悟ることが、まさに仏の御心に叶うことなのです 阿弥陀如来が、五劫 ( という長い年月 ) の修行して、考えをめぐらし、起こし難い願を発しておられますのに、どうして我らが、億々万劫 ( という考えられない長い年月 ) を流転輪廻し、宝の山に入りながらも何も得られないと思うことは、恨みの中の恨みであり、愚かしく、悔しいことではありませんか 。決して、善も悪も空であると正しく悟ることより他の思いを持つべきではござません。
令和6年2月 瀬戸風 凪
setokaze nagi