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俳句のいさらゐ ✥♮✥ 松尾芭蕉『奥の細道』その四十一。「桜より松は二木を三月越ㇱ」

桜より松は二木を三月越ㇱ

掛詞を使った俳句である。『奥の細道』は、掛詞を要所で使っているのを、この解釈シリーズ記事で述べて来た。
 「草の戸 ( 徒 ) も住み ( 澄み ) 替わる世ぞ」
 「剃捨て黒髪山に」
 「涼しさやほの三日月   ( ほの見 ) 」
 「蛤のふたみ ( ふた身、二見ヶ浦 ) 」
などがその例。芭蕉は、俳句を重層に構成する句法が掛詞と見ていたことになる。

表掲の俳句の句意はこうなる。
 ■ 桜の季節 (=旅立ち ) から、この行脚において見たいと望んできた歌枕の
   武隈の松の、二つに分かれて生えている姿を、三月を経て今、見たこと
        である。
松に待つ、三月に見つ、を掛けている。二 ( ふた ) 、三 ( み ) の数字並べ遊びもある。

掛かり方は先人の歌を踏襲していて、芭蕉の創案ではない。そこが、この俳句の、解説諸書でしばしば見られる低い評価にもつながっている。
私も、それだけの味わいの俳句かと思いつつも、『奥の細道』を新しい視点で解釈したいと思い書いて来た者として、まだ見つめ切れていないものを求めて、前文を含めて何度も読み直した。

そうすると、はたと目に止まったことばがある。「遅桜」である。その部分を引く。

「 武隈の松みせ申せ遅桜 」と、挙白と云ものゝ餞別したりければ 、
                 桜より松は二木を三月越ㇱ

目に止まったのは、「遅桜」ということばは、これからあとの湯殿山の章に重要な語彙として出てくるからだ。その部分を引く。

岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣て、此山 中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。
                語られぬ湯殿にぬらす袂かな

以下、私のこの解釈シリーズの「『奥の細道』その二十一 」 2024年6月26日 の記事の部分を、少し長くなるが再掲する。

遅桜について語った部分 ( ※上の引用の文章 ) を現代文にすれば、こういうことだ。
 岩に腰かけてしばしやすらっていると、三尺ばかりの桜の蕾が半ば開いて
 いるのが目に止まった。降積の雪の下に埋もれても、春を忘れず開く遅桜
 の花の心がいじらしい。
 炎暑の季節に梅花と会うような、あろうとは思えないことだ。行尊僧正の
 山中に桜を見た歌がしみじみと思い出されて、なおさら感慨深い。

俳文 ( ※上の引用の文章 ) の方を詠むと、参道の山道で遅桜の花に心を奪われたこと、その感激の大きさを、行尊僧正が詠んだ遅桜の和歌を引き合いにして述べており、こちらが、この俳句の前書きに、つまり吟詠の主旨を示唆するものになっている!と感じられる。
文中で「行尊僧正の歌」と言っているのは次の歌である。
後世 ( 今日に至るまで )、類歌が詠まれ、また語句を引用した和歌がいくつも見られ、江戸時代にはかなり知られていた歌である。

    もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
                    『金葉和歌集』雑521

瀬戸風 凪「俳句のいさらゐ『奥の細道』その二十一 」より

芭蕉は、おそらく奥州出身で、武隈の松を見知っていたであろう門人挙白の、餞別句としての「武隈の松みせ申せ遅桜 」を受けたときから、みちのくは、上方や江戸よりもずいぶん遅く桜が開き、咲き残っている様子を、風情ある姿と感じて、こころに印画していたのだろう。
芭蕉の当初の心づもりでは、遅桜も行脚の途中で見かけるかもしれないと期待していたのではないだろうか。実際の歩みが、それを叶えさせるほど、思う通りには捗らななかったということだ。

しかし湯殿山では、まさにそれが目の前に、思いもよらず現出した驚きがあった。
つまり、『奥の細道』全体の構成からは、挙白の餞別句で遅桜を示すことにより、後段の湯殿山で遅桜に出会った驚きの、前振りをしていると言えるのだ。
湯殿山で出会った遅桜から、芭蕉は行尊僧正の歌への連想しか語っていないが、挙白の詠んだみちのくの遅桜のこともまた、武隈の松の章で語っていることにより、重層的に、透かし見に見えてくるのである。

そう考えると、俳句中の「桜より松は」の桜は、一般名詞としての花の桜という意味に留まらず、裏の意味として、挙白の餞別句そのものを言っていると見えて来る。
つまり ( 挙白の餞別句を読んだときより楽しみにしていた ) という意味にもなるのだ。その気持ちが「桜より松=待つ」にはこめられていよう。
そして「三月越ㇱ」とは、武隈の松を見るのに三月も過ぎてしまった、という謂と見るよりは、挙白の餞別句の温かみを、三月もこころから離さず持ち続けて来たことだ、という得心の思いが感じられる。

形式の上では、多くの解説書が言うところの、餞別句の主、挙白への挨拶句 ( 餞別句に対する返し ) になるのではあるが、挙白への挨拶句と片付けてしまうと芭蕉の感動が伝わらない。
この俳句の本意は、江戸で挙白から話を聞いたときには茫洋と浮かんでいた武隈の松の眺めが、いま鮮やかに眼前にある、はるけくも来つるものかな、というしみじみとした感慨にあると思う。

象潟の章で唐突に置かれた低耳 ( みのゝくにの商人 ) の俳句を除いた上で言えば、余りにさりげない掲出の仕方ながら、『奥の細道』の中で、門人の俳句としては、曽良の俳句以外では、この挙白の俳句だけが載せられている。そして、重要な役回りを為しているのである。
湯殿山の章まで読み進んだ読者は、芭蕉が感嘆した遅桜と言えば、武隈の松の章で出ていた門人の餞別句にすでにあったと気づき、引き戻されるという仕掛けになっている。
そしてその餞別句「武隈の松みせ申せ遅桜 」は、『奥の細道』全編の中に置いて眺めれば、挙白が芭蕉に見せたいと望み、それを見たいと芭蕉が望んだ思いは、武隈の松にも、みちのくの遅桜にもわたっているとわかるのだ。

                                      令和6年12月                           瀬戸風  凪
                                                                                                 setokaze nagi

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