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俳句のいさらゐ ⚀⚀⚀ 松尾芭蕉『笈の小文』より。「雲雀 (ひばり) より空にやすらふ峠かな」

松尾芭蕉の紀行『笈の小文』に入っているこの句には、「臍峠・多武峰より龍門へ越ゆる道なり」との前詞がある。桜井市と吉野町との境にある、現在の表記では細峠で詠まれた。雲雀のさえずりが、眼下の眺め、春霞の掛かった山あいのあちらこちらで、水の泡が浮かび上がっては割れるように聞こえている。
雲雀の名の「雲」の表記が、印象効果を挙げていると言えるだろう。雲、空、峠の字の連なりが、簡素で遮るもののない大きな場面を作っている。
句意をひも解き、俗っ気を交えて肉付けすればこんな思いであろう。

雲雀のさえずりはどこからと耳をすませば、空の高みからではなくて、何とまあ、眼下から聞こえてくる。今自分が立つ場所は、雲雀がひそむ空の高みよりも、さらに高い処なのだなあ。
そのはずだ、寄る辺とて、ここにはただ青い空があるばかり。まるで空の座敷に憩っているようなものだ。
こういう場所では、雲雀のさえずりで一句仕立てようというような詠趣は消し飛んでしまう。鳥のいる空よりも高い処を越えて、旅を続けてゆこうとしている自分の数寄者ぶりを、可笑しくもまたあわれにも思うばかりだ。
これからあとの句作にあっては、雲雀は安易には詠みこめないだろうなあ。

この句の逆、つまり、低みにいて高空からのさえずりを仰ぎ聞くという状況を詠んだのが、上に掲げた芭蕉の重要な門弟野沢凡兆の句だ。
凡兆には、次の句もある。
市中は物のにほひや夏の月     野沢凡兆

京都で医師をしていたという凡兆。京の庶民の暮らしの場面に囲まれて、日々を過ごしていただろう。そこから生まれたであろう佳句だ。
振りかえって「雲雀鳴く」の句を見ると、京都桂の河原が意味しているのは、今日繰り広げられているような春の嵐山の雑踏とまではゆかないが、当時も遊興の地であった嵐山の、遊行客のざわざわした様子であろう。
その賑わいに彩を添えるような雲雀のさえずりを、春爛漫のこの場面に相応しいとしたものであろう。
のちに零落したとも伝わる凡兆だが、このときは京の医師として豊かな暮らしもできていたと思われるから、舟遊びに興じている場面での句かもしれない。
つまり凡兆のこの句の「雲雀」という季語の用い方が、雲雀のとらえ方として納まりがよい演出と言えるのだ。
芭蕉の句は、常套的な見方による季語「雲雀」が描き出す風景の額縁を、取っ払ったと言えるだろう。

芭蕉には、雲雀が出て来る別の句もある。

この句は、貞享4年(1688年)芭蕉44歳の時の句。貞享は元禄の一つ前の年号である。
日がなさえずる雲雀の声であることよ、ようやく日永の春の日も暮れようとしているが、まださえずりが止む様子がない。まさに与えられた命の限りに今この時をさえずり続けているなあ。
こちらの句は、雲雀の常套的な用い方である。こういう読み方をするものという固定の意識が根底にあった。
それに対し旅路だからこそ、写生の眼がいきいきと働き、従来俳句に用いられてきた文房的視点による、雲雀のさえずりの概念を超える見方が突然浮かんで来て、「雲雀より空にやすらふ峠かな」の句は生まれたのだ。「永き日も」の句の翌年、貞享5年(1689年)の旅でのことである。
                  
                 令和5年3月          瀬戸風   凪
                                                                                               setokaze   nagi



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