ワタクシ流☆絵解き館その146 俊英たちは時代の扉を押し開けた!―明治40年東京府勧業博覧会の光彩②
今回の記事は、「ワタクシ流☆絵解き館その145 ここから画家たちは羽ばたいていった―明治40年東京府勧業博覧会の光彩①」の続編です。
今日においては、絵の価格は数百万円にもなろうかという、近代洋画界きってのスターと言っていい青木繁であるが、その生涯を振り返れば、明治40年東京府勧業博覧会の出品作「わだつみのいろこの宮」が、彼が公けの展覧会で発表した最後の作品となり、かつて中央画壇では脚光を浴びたというのが売りの、([あやしげな]というカッコ付きの)田舎名士の地位に終わった画家人生であった。
一方この展覧会の入選者たちの相当な人数が、その後美術のさまざまな分野でそれぞれに大きな仕事をしているが、青木とは正反対に、多くの者は没後は名前が上がることは稀である。これはほとんどの画家の(芸術家全般の)宿命である。
しかしながら、東京府勧業博覧会開催の価値は変わらない。前回に続き、東京府勧業博覧会に出品していた多士済々の青年画家たちを探ってゆけば、明治後期の美術界は、前途洋々たる爛漫の時代であったことが見えてくるだろう。
■ 石井満吉(石井柏亭)
石井満吉の本名で風景画を出品したのは、のちに版画、水彩、油彩などで数千点の作品を創作、戦前は帝国芸術院会員、太平洋戦争の後まで画筆をふるった石井柏亭。
石井柏亭は、絵を描くだけにとどまらず、画家山本鼎、森田恒友とともに、自らが編集する美術雑誌「方寸」を明治40年に創刊している。
明治40年1巻5号の「方寸」に、青木繁は名を伏せて(編集者の配慮だったと思われるがS・A生と、わかる人には一目瞭然の名で)寄稿しており、東京府勧業博覧会で、「わだつみのいろこの宮」の評価を軽んじた審査への不満を、執拗に書き連ねている。
その文章の中で、本心かどうかはわからないが、「和田(英作)の景色如きは、庄野(宗之助)、石井(満吉)、坂本(繁二郎)よりも劣れり」とわざわざ名を挙げて、雑誌の発行人石井(満吉)を持ち上げているのが面白い。
和田(英作)はこの展覧会の審査員でありながら、お手盛りで一等賞を受賞していることが怒り心頭に達していたのだろう。
図像(下に掲げた絵)で見る限りでは、和田の絵は、確かに何というほどの魅力もない。
■ 橋本邦助
橋本邦助 (はしもと ほうすけ)は、東京美術学校卒。白馬会研究所で黒田清輝門下。第一回文展からすでに評価された。
大成した画家であるが、作品は目にする機会がなく、魅力を語ることができない。筆者には、挿絵の仕事が味わい深く感じられる。
下に並べた挿絵を見ていると、青木の「海の幸」や「漁夫晩帰」の背景を見るような興味が募る。明治時代後期の、漁村風景が浮かんで来る。
洒脱な絵も描いている。竹久夢二らの、いわゆる「大正ロマン」に先鞭をつけた画風のようにも感じられる。
■ 堀 規矩太郎(ほり きくたろう)
堀規矩太郎はすでに日本専売公社のデザイナーとして仕事をしていた。展覧会出品は、実力試しの意味合いがあっただろう。
明治40年5月発行の美術雑誌『みづゑ』において、水彩画家大下藤次郎は東京府勧業博覧会出品の堀の「朝霧」(下の絵―図録からの画像)についての評を、次のように述べている。評価は高くない。
「九四番(※出品番号のこと)「朝霧」堀規矩太郎氏筆
中央に圓い山があり、中腹に紅葉の林、前景に稻叢など置かれてある極淡白な四ツ切程の大さの繪である。此作者は、霧といふものは繪具をうすくつけるものと誤解してゐるのではあるまいか、近來トント見かけぬやり方で、何だか十年も跡の展覽會に立戻つたやうな氣がした。」
彼の本業であるデザインによるたばこのパッケージ図柄を、その下に掲げる。
上の図版の「オリエント」や「アルマ」を見ていると、青木繁が読み込んでいたヴェーダ(バラモン教とヒンドゥー教の聖典のこと)を連想する。
インドやエジプトの文明への関心が、明治時代の中期から後期においては、異世界への好奇心という熱を持って、創作者たちにあったことを思う。
東京府勧業博覧会の出品者には興味をそそられる画家が多く、さらに続編を書くつもりです。
令和4年6月 瀬戸風 凪
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