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俳句のいさらゐ ✬∴✬ 松尾芭蕉『奥の細道』その四十二。「むざんやな甲の下のきりぎりす」
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この俳句が、甲 ( かぶと ) の主、斉藤実盛の生き方死に方 ( 平維盛に従い、木曽義仲と対峙した倶利伽羅峠での戦い臨み、白髪を染めて奮戦したが討死した ) への惜念に焦点があることをわかった上で、詠みぶりから受ける印象を述べる。
私は先ず、思わぬ場違いなところ (甲の下) に、か弱き存在であるもの (きりぎりす) が身を潜めている姿が、哀れを催すものとして目に映っているのを言い留めた俳句と感じられる。
その視点から、この俳句の類想句と言える、双子のような次の俳句を『奥の細道』に見る。
這出よかひやが下のひきの声 芭蕉
である。両句を比べると、きりぎりす、の方は声だけでなく姿も芭蕉に見えていて、ひき、の方は声が聞こえているだけなのだろう。状況は違う。
しかし、( 恐れるようにじっと潜んでいるものよ、そこにいるより表に出てくるがよい、出て来て鳴くがよい ) と、小さな動物に呼び掛ける思いが共通している。
改めて見直すと、『奥の細道』で芭蕉の俳句にうたわれた小さな動物は、はっきりと姿を現わしていない。
木啄も庵はやぶらず夏木立 芭蕉
は、この山には木啄はいるだろう、嘴で穿った跡が高い木々に見える、けれどこの庵をつついた様子はなく現に今も姿はない、人からは距離を置いて、どこかでひっそりといるのだ、という観察と読める。
閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉
は、蝉の声が主たる焦点で、木々に群れている蝉の姿ではない。むしろ、蝉の姿はまったく見えていないと感じさせる。蝉が隠れていて見えないというのではないと思うが、視線は蝉の姿を追う方に向かず、声のみを瞑想の中に置き、無の境地、もっと言えば虚無に近い境地に遊んでいる。
「場違いなところに、か弱き存在であるものが、身を潜めている」
「人からは距離を置いて、どこかでひっそりといる」
芭蕉の思いをそう表現した上の引用俳句を考えるとき、作句心理の背景に沈んでいると思うのは、次のことだ。
▣ 『奥の細道』の長歩きの途中、幻惑のように浮かんで来る己が人生を振
り返ることが芭蕉にあり、その中で、自分が望み、めざした場所 ( 職
務、責務、地位 ) での人生設計が叶わなかった大きな挫折、天命がそれ
を与えなかった悲哀が、今さらながら芭蕉を包んでいる。
さらには『笈の小文』冒頭に述べているように、「無能無芸にして只此
一筋に繋る」という自己憐憫、つまり俳諧に溺れてしまったことは幸で
あったか否か定めがたいが、そうするしかできなかった諦観が、さざ波
のように寄せていたのではないか。
一言で言い換えれば、感傷であり、悔悟である。私のその理解を肉付けする履歴を、芭蕉の年譜から振り返ってみる。
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藤堂藩連枝 藤堂良忠に出仕していた芭蕉は、寛文6年、1666年、俳諧を介して強い結びつきを得ていたその主君 ( 藤堂良忠 ) の突然の死によって、職を辞したと言われる。そして寛文12年、1672年、芭蕉29歳の年、伊賀上野を出て江戸にゆく。
良忠亡き後は、藩に士分として取り立てられる望みがないと見切らざるを得なかったわけだが、さりとて武家奉公人として諸役に携わるだけでは満たされず、好きな俳諧の道で、俳諧師として一家を為したい気持が募ったことが、芭蕉を江戸に向かわせた理由だと想像される。
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主君の死後、江戸に下る決心がつくまでは、悶々とした歳月であったろう。そしてここから先は、小説で書かれる他ない領域の想像だが、この期間中、寿貞 ( 芭蕉の愛人であったと思われる女性 ) との出会いと別離があったと思う。
寿貞は芭蕉の妻というべき存在だったのか、ともに江戸に出たのか、また芭蕉、寿貞双方の晩年、芭蕉庵に引き取る以前に、江戸で芭蕉ともに暮らしていた時期があったのかどうか、諸書の解説本でも、明確に断じた論説はない。
寿貞について言えるのは、年譜に記述すれば、「妻を娶る」という一行で済むような関係ではなかった、ということだろう。芭蕉が江戸に出て以降も、ともに暮らしていた形跡はなく、晩年芭蕉庵に引き取られたときは、子をともなっての入庵であるから、芭蕉とは別々の人生を生きた女性であることは確実だが、芭蕉には、切れない縁の人であったのもまた確かなことである。でなければ、庵に入るよう声を掛けたりはしないだろうし、寿貞が応じることもなかっただろう。
師について多くを書き残した門人たちが、寿貞についてほとんど書き残していないのは、芭蕉の名誉に関わることがらを含む事情があったと考えるのが妥当ではないだろうか。
穏当に考えればたとえば、俳諧師としてはまだ先行きが確立せず、また俳諧の道を求めるのに一心不乱であった若き日の芭蕉が、未練を残しつつ寿貞を振り切るように去り、寿貞は、他に嫁いだものの、やがて何らかの理由で零落し、出家 ( 寿貞《尼》という呼称で記録されている )しなければならなかった事情が想定されるのではないか。
俗名の方は伝わらないということは、寿貞本人、および芭蕉が、俗名を意図的に使わなかった ( 書き記さなかった ) ということを意味するだろう。
出家を選ぶとは、俗名を名乗っていた時代を忘却、あるいは一新したい思いがあるのを意味するはずだ。
そして、門人たちが何も書き残していないということは、逆に見れば、寿貞は門人たちの眉をしかめさせるような女性ではなかったということだ。芭蕉には有害な人であったと認識していれば、芭蕉の死後恨み言の一つも誰かが書くはずである。毒妻 ( あるいは悪女 ) が、師の芸術活動を妨げていたと指弾する友人、弟子の言は、現代においてもいくらでも拾うことができる。
芭蕉がおそらく憐憫の情からひっそりと保護していた気持ちを、門人たちは汲んでいたと思う。なお、寿貞とともに芭蕉庵に移り暮らしていた寿貞の子らの父親を芭蕉とは、私は考えない。
寿貞の死で残された子らを、書簡で不仕合せ者と言っているが、実の父親ならそんな客観的な言い方は決してしない。実の子を不仕合せ者と言うのなら、先ず父親としての不徳を詫びる言葉が先に来るのがまっとうな人であるからだ。
遺書にも、誰よりも頼みとした杉風宛てのものには、この世の未練を絶ち切るために、我が子の先行きを頼むとはっきり書くのが、世を去り行く人の本当の思いであろう。芭蕉の遺書にそういう記述はない。
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『奥の細道」の最初の俳句は、「草の戸も住替る代ぞひなの家」である。この俳句は、「住める方は人に譲り」とこの章の俳文にあることから、世捨て人のような自分が庵を出たあとは、雛を飾るような穏やかな一家が暮らし始めていることよ、という句意だと通常解釈される。
そういう波風少ない世間一般のありように背くかのように、自分は漂泊の旅につこうとしているという、いわば自省的な感情を読み取ると同時に、自分が強くさえあれば、そういう家庭を持つこともできたのかもしれなかったのに、と芭蕉が見果てぬ夢を垣間見ているのを、反意表現で表しているようにも思う。
そこに、娘らとともに暮らしていることを知っている寿貞の姿を重ねていると想像することは十分可能だろう。
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三好達治の名品「雪」を思い出す。
達治は、太郎次郎の眠る家の屋根に降り続ける雪の情景に、漂泊の思いにとらわれた表現者たらんとする者 ( 達治自身 ) が、天性の詩人の魂を持つゆえに、自分には安住の場として選べない、小市民の幸福を暗示したと思う。私は無名の民、太郎次郎として、その屋根の下には眠ることは叶わないのだと。
二人の詩人の時代は遥かに異なるが、同じ構図を、芭蕉の「草の戸も住替る代ぞひなの家」の一句に私は感じ取る。
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「むざんやな甲の下のきりぎりす」に話を戻そう。
この「きりぎりす」に、武士として世に立てず、一介の文人として、あいまいな、いわば世外の階級に生きて来た自分を、甲の下に潜む存在として象徴する意味を持たせたとまでは言わない。
前文からしてもあくまで、力弱ってなお蠢いている虫に、斉藤実盛の最期を重ねた着想であるのは動かない。
しかし、上に述べてきたように、芭蕉のうたう小さな生き物たちは、生命を存分に溌溂と謳歌している姿ではうたわれない。『奥の細道』から離れて眺めてみても、たとえば
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 「笈日記」
白げしにはねもぐ蝶の形見哉 『野ざらし紀行』
年ゞや猿に着せたる猿の面 「翁艸」
など、「むざんやな」と詠んだ芭蕉の心情につながるように、生き物たちの何か哀れにも映る姿に目を止めている気がする。
それを、芭蕉の優しさ、情愛の深さ、慈しみの心と理解することもできるわけだが、その一方、在るがままの、抑圧のない命を生ききれていない存在、ひっそりと目立たず生きるのを宿命とする存在に、心が引き込まれる憐情ともとれるであろう。そしてその源には、自分自身の、挫折による大きな癒せぬ傷心がある、と私には見えて来る。
令和6年12月 瀬戸風 凪
setokaze nagi