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ワタクシ流☆絵解き館その252 青木繁「わだつみのいろこの宮」・ 東京勧業博覧会こぼれ話

青木が画業集大成の気概を込めて、1907 ( 明治40 )年の東京勧業博覧会に出品したのが、現在重要文化財指定されている「わだつみのいろこの宮」である。
今回は、この作品出品時のこぼれ話を拾ってゆこう。

1907 ( 明治40 )年7月発行「園藝之友/臨時増刊号」より 東京勧業博覧会 美術館の様子
1907 ( 明治40 )年7月発行「園藝之友/臨時増刊号」より 東京勧業博覧会の様子

💎 記録には、出品作が「わだつみのいろこの宮」と記載されていない!

1907 ( 明治40 )年7月発行「園藝之友/臨時増刊号」は、東京勧業博覧の大特集号であるが、出品作品目録には、青木繁の出品作は、「わだつみのいろこの宮」ではなく、「印度神話」と書かれている。
これには、「わだつみのいろこの宮」の完成が、東京勧業博覧開催までに間に合わないと危惧した青木が、手持ちの「印度神話」をとりあえず出品作として登録したからだという説がある。
結局間に合わせて、「印度神話」の方は出品しなかったか、始まってすぐに「わだつみのいろこの宮」に取り換えたのではないかと推察されている。しかし目録上は、出品作タイトルの書き換えが行われなかったのであろう。

1907 ( 明治40 )年7月発行「園藝之友/臨時増刊号」より 出品目録の部分

このことについては、以前「ワタクシ流☆絵解き館その172 青木繁の、姿を消したいくつかの作品」で触れた。再掲する。

1944年発行「美術研究/第138号 河北倫明《青木繁の生涯》」より要点部分を引用する。

 博覧会美術審査部の監査は、いよいよ三月十三日より開始され、同十六日
 までに終了した。(中略)明治40年3月5日の美術新報によれば、この審査
 の際には青木は未だ大作ならず、「印度神話」( ※「佛陀時代の幻影」の
 こと ) と題する油絵を出品し、それが入選したように解せられる。
 しかるに三月二十日、青木が真岡の町から東京七面坂にあった友人安藤東
 一郎にあてた書簡によると、「わだつみのいろこの宮」がようやく完成し
 た旨を報じ、これを出品するにはいかが手続すべきやを尋ねてきているの
 であるが、この間の事情は明白でなく、安藤氏もまた記憶せられない。
 おそらく青木は一度「印度神話」を出しておいて、開会後上京した上で、
 陳列作を取りかえたものとすべきであろうか。

1944年発行「美術研究/第138号 河北倫明《青木繁の生涯》」より
1905年(明治38年)2月発行の「白百合」第2巻第4号に載った図版 青木繁「佛陀時代の幻影」

💎 明治天皇は青木の絵には興味を示さなかった?

国家的事業であったこの博覧会には、明治天皇が御幸されており、そのときの様子が、同じく1907 ( 明治40  )年7月発行の「園藝之友/臨時増刊号」に書かれている。

美術館 
「午後一時を過ぐること二十分、陛下には再び美術館御巡回覧仰せ出され、御馬車にてただちに美術館御入御。第一に玉歩を駐めさせられたるは、洋画の部の中村不折氏筆《建国剏業》にして、児島虎次郎氏筆《岡山孤児院》等亦た御熱心に御覧あり」
(以下略 ) 

1907 ( 明治40  )年7月発行の「園藝之友/臨時増刊号」より引用

明治天皇が熱心にご欄になったとして挙げられている絵を、下の二枚の図版で示す。

中村不折 「建国剏業(けんこくそうぎょう)」1907年 関東大震災で消失

「ワタクシ流☆絵解き館その170 媛御子(ひめみこ)のヌードは躊躇した《わだつみのいろこの宮》」で、この「建国剏業(けんこくそうぎょう)」について取り上げた。再掲する。

しかしこの作品には、批判が湧き起こった。盗賊の群れのようにも見える男たちの中にいる、生々しい裸体の婦人の像が皇祖とは不敬、という批判だ。この絵の状況を理解せずに見れば、その見え方も、一蹴することは出来ないと思う。不折は受賞を辞退している。
当時は、西洋の神話題材の絵では女神が裸体であることに倣い、日本の神話に置き換えて描く芸術的意図を、世間の見方では、純粋に芸術的意図として受け入れるに至っていなかったわけだ。

「ワタクシ流☆絵解き館その170」より引用

明治天皇は、伝承の中の皇祖を描いた作品という興味から「建国剏業」に目を止められたのであろうが、青木の「わだつみのいろこの宮」もまたその制作趣旨だけで言うなら、同じく皇祖にまつわる伝承を描いていて、「古事記」の中でも白眉の場面である。
しかし少なくともこの稿を書いた記者の目には、「わだつみのいろこの宮」の方は、絵の前で立ち止まり凝視する陛下の姿は見られなかったのだ。

「児島虎次郎氏筆《岡山孤児院》等亦た御熱心に御覧あり」とあるのは、上に掲出した出品目録でいうと、児島虎次郎「あさけの庭」で、これは「なさけの庭」の誤植であろう。
会場では、「岡山孤児院の一場面を描いたもの」というキャプションが絵に添えられていたのだろうか。一等賞を受けたこの絵が、宮内庁買い上げとなったのは、明治天皇の気に召したことにつながっているのかもしれない。 

ワタクシ流☆絵解き館その69」より転載

なお、まったく同じくこの二作を、東京勧業博覧会の美術作品の感想に ( 回顧の文章として ) 挙げているのが、画家の太田三郎 ( 明治17年~ 昭和44年 君島柳三という挿絵画家の名も持つ ) である。
付け足しのように青木の名も添えられているが、この文章が載る雑誌「美術新論」第8巻第9号は、1933 ( 昭和8) 年の発行である。1912年(明治45)年に、東京上野と福岡で青木繁遺作展が開催され、翌年には『青木繁画集』が刊行されていて、青木没後から友人間では、青木の名が埋もれるのを惜しんでの顕彰の営みがあった。
昭和初期の時代には、一般の知名度はまだ低かったものの、画家の間では青木の名は、東京勧業博覧会での話題をともなって浮かんで来るものになっていたのであろう。

一番問題になったのは、前にも云ったように、中村不折氏の「建国剏業」で、これは実際強い気魄に充ちたどっしりとしたタブロウでした。故児島虎次郎氏は、岡山孤児院を題材にした「なさけの庭」を出して、一躍して名を成しました。青木繁氏の古事記取材の「わだつみのいろこの宮」が出たのもこのときでなかったかしら。
それは、装飾風でローマンチックな作で、英国のロセティー ( ※  ロセッティ ) や、バンジョース ( ※ バーン・ジョーンズ ) を思わせたりしました。

1933年発行 雑誌「美術新論」第8巻第9号 太田三郎「展覧会回顧」より抜粋

💎 岩野泡鳴は絵を「湯津香木(ゆつかつら)」と呼んでいる。未完成と思っていた!

岩野 泡鳴(いわの ほうめい 小説家・詩人 明治6年生まれ~大正9年没 )は、青木と親交を持ち、自身の詩集「夕潮」( 明治37年12月出版 ) の挿絵を青木に依頼した。
その泡鳴が、大正11年刊の「泡鳴集第17巻」に収められている「當世痛罵録」で、この展覧会に並んだ絵の感想を述べている。

最も勢力のある白馬会員中にも、碌なものは出していないではないか。 ( 中略 ) 場中で先ずいい方と云いたいのは、中村不折「建国剏業」と、青木繁氏の「湯津香木」であらう。しかし後者はまだ未完成品らしいし、 ( 以下略 ) 

大正11年刊 「泡鳴集第17巻」所収「當世痛罵録」より部分抜粋

泡鳴はこの稿を書くとき、「わだつみのいろこの宮」という絵のタイトルを忘れていたのであろう。しかし何を描いたのかはよくわかっていた。
「古事記」の山幸彦伝説で使われている「湯津香木」の記述を使っている。「湯津香木」は山幸彦が座るかつらの樹のことだ。

「まだ未完成品らしい」という言葉は、どこからの情報だったのか。現物に接すれば、かなり描きこまているのがわかると思うのだが。
東京勧業博覧会より前の、白馬会展に出品した「海の幸」が、青木の意図は完成画ということにあったが未完成と受け取られ、続く「大穴牟知命」は未完成のままに出品した経歴があるので、岩野 泡鳴には、青木は未完成で出品するというイメージがついてたのだろうか。

💎 観客の一感想「何とかいふ神話的なもの」

前段でも述べたが、「わだつみのいろこの宮」というタイトルは、覚えにくかったのだろう。1907年5月発行の「日本教育」第48号に載る、陋巷の人というペンネームで書かれた「博覧会記」には、こうある。

「何とかいふ神話的なものをかいた青木繁といふ人が父の知人の婿で、その細君とは自分も一面識があるので、その由を話すと、はゝア、さうだッたかいと今初めて知つたといふ顔色。

1907年5月発行「日本教育」第48号 陋巷の人「「博覧会記」より

絵に関する感想ではなく、知人ゆかりの画家ということに感心している。絵には何の興味も覚えなかったようだ。

💎「細君にそっくり」という絵を見た者の感想

1907 ( 明治40 )年6月発行の雑誌「日本教育」53号に、「美術館素人評 凸眼子・凹眼子」というコラムがあり、そこで、「わだつみのいろこの宮」は次のように評されている。

・絵は兎に角、賣賈 壱千五百圓はどうだ。まるで岩谷天狗の看板みたやうだ。
・いやこの男は中々自信のある男なんだよ。とにかく苦心の籠つてる點
では、場内でも珍しい作だ、多とすべしだらうよ。
・左の方の瓶みた様なものを持てる女は、先生の細君にそつくりださうだ。

1907年6月発行 雑誌「日本教育」53号「美術館素人評」より

細君とは、福田たね。この頃の彼女を描いたのが、青木の絵の傑作の一枚である「女の顔」( 挿図① )。
左の方の女とは、豊玉姫 ( 挿図② ) 参考に二枚の絵の顔を重ねて、一枚に浮かび上がらせてみたのが挿図③

挿図① 青木繁「女の顔」
挿図②  青木繁「わだつみのいろこの宮」 部分
「わだつみのいろこの宮」豊玉姫の部分に、「女の顔」の部分を合成

💎 目を引いたのは「壱千五百圓」の値札だった

上に引いた文章では、「絵は兎に角、賣賈 壱千五百圓はどうだ。」と驚いている。出品作品に作者が値をつけてもいいことになっていたのだ。美術品は、5月6日より売約開始と博覧会の手続き集に書いてある。
明治40年の1500円は、令和5年現在の価値に換算すると、おおよそ150万円から170万円くらいであろう。
当時青木は、「海の幸」で名の出た新進画家ではあったものの、さすがに、呆れられる強気の値段設定だと思われる。

                                                                令和5年12月    瀬戸風  凪
                                                                                                 setokaze nagi

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