ワタクシ流☆絵解き館その206 青木繁「少女群舞」ー絵画エッセイ風に(青木繁生誕140年記念展)
アーティゾン美術館の所蔵品を中心とする「生誕140年 ふたつの旅 青木繁 ✕ 坂本繁二郎」( 巡回展 2022年11月 二人の故郷である九州久留米の久留米市美術館での開催 ) を鑑賞。青木繁の全画業を通覧する大きな喜びが得られた。
繰り返しデジタル画像や画集で見て来た作品ながら、実物を凝視してみて初めてわかったこと感じたことを、青木の作品に絞り、作品ごとに書いている。
今回は、「少女群舞」。
■ 「サイズが小さい!」第一印象はこれに尽きた
実物の作品は、今、noteに作成しているこの記事の、上に掲げた「少女群舞」の画像サイズとほぼ同じ大きさしかない。
この絵には、目にした光景をとっさに描いたというエピソードがある。ということは、(こういう手帳サイズの板を、青木は持ち歩いていたのか?)と思った。
会場でもらった出品目録を見ると、出世の糸口になった白馬賞の対象作品「闍威弥尼」( 1903年 板 油彩 アーティゾン美術館蔵 ) や、布良で描いた「海」( 1904年 板 油彩 アーティゾン美術館蔵 ) という絵が、同サイズだった。
やはり、油彩素描用にこういう規格サイズの板があったのだとわかる。画集で見るとき、サイズには一応目を向けていたが、それを手帖の大きさだと、リアリティのある感覚で意識してこなかった。だから、それを目の前に確認すると、思わず「サイズが小さい!」となるわけだ。
とすれば、絵の具やキャンヴァスを買う金に事欠いていた青木は、キャンヴァスに比べずいぶん安価なはずのこのサイズの板に、多くのスケッチ画やエスキースを描いたことだろう。それが今は行方不明になっているのが惜しい。
絵自体が持つ幸運不運の宿命を思った。この絵は、描いてすぐ、友人高島宇朗のところへ持ち込み、そのまま置いて行ったと宇朗が語っている。青木が置いて帰らなければ、きっとその後の流転の境遇の中で紛れて、今日に伝わらなかったに違いない。宇朗は、青木の作品はどんな簡素なものも大事に持ち続けた。
■ 他の画家の絵では見ない躍動の場面
次の印象は、当時女子学童をこんなふうに躍動する姿で描いた絵はないだろう、という思いだった。その思いを確かめるため、女子学童を描いた当時の絵を調べてみた。
やはり、静かに憩う姿の絵は見つかるが、活動する姿の絵は探し当たらない。探し当てた絵を下に掲げる。
青木は、女子学童の楽しそうな姿を記録したというより、目の前を過ぎて行った明るい一陣の熱気を描いたのだろう。だから、表情もいらず、情景のディテールもいらないのだ。見るもの、側をかすめて過ぎてゆくものが、ひりひりと青木の心に感応したということだろう。
明治37年(1904年)。青木繁22歳。「海の幸」を筆頭に、代表作とみなされる作品の半数は、この年に制作していることを改めて思っていた。
令和4年11月 瀬戸風 凪
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