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大豆田とわ子と三人の元夫たちが残してくれたもの

「過去とか未来とか現在とか、そういうのって、どっかの誰かが勝手に決めたことだと思うんです。時間って別に過ぎてゆくものじゃなくて、場所っていうか、その……別のところにあるもんだと思うんです。人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、20歳、30、40、そのときそのときを人は懸命に生きてて。それは別に過ぎ去ってしまったものなんかじゃなくて。だから、あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑ってるし。5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手をつないでいて。今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる」(第7話)

これは、私が大豆田とわ子を観ていて、一番心に刺さったシーンだった。

このドラマに自分が強烈に惹かれた理由がこのセリフにあるような気がしている。

私は、社長でもないし、離婚もしてないし、娘もいない。親友を亡くしてもいない。ましてや美人でもない。

でも、とわ子の気持ちがすごくよくわかる。
回を重ねるごとに、とわ子に自分を投影して共感の涙を流した。

なぜなのか。

とわ子が、悩んでいる、抱えているモヤモヤは物凄く等身大だからだ。
人生の分岐点である離婚について一つも描かれていない。かごめちゃんの死についても書かれていない。
そこにあるのは、日常だった。

その日常が救われるきっかけとなった言葉が冒頭の小鳥遊の言葉だったと私は勝手に思っている。

だから、最終回に

「私の好きな人が笑ってくれていればいい。」

とわ子はそう言った。

それは、
『好きな人』
のカテゴリが物凄く広い話だな、と感じた。

ここで言う『好きな人』とは、八作かもしれないし、鹿太郎かもしれないし、慎親かもしれない。また、唄かもしれないし、父親かもしれない。
『好きな人』=恋愛関係
だけではない。

とわ子は、現時点で誰もパートナーを得ていない。
それは自分で選んだことだ。
だけど、それでいい、と今のとわ子は感じているし、満足もしている。
また、恋愛詐欺に引っかかるかもしれないけど、それはそれ。

とにかく、
今の自分を受け入れた。

私は、最初、このドラマはとわ子と三人の元夫たちの恋愛模様の話になるんだとばかり思っていた。
でも、首尾一貫とわ子は、彼らとの復縁は「ない」とキッパリしている。笑っちゃうくらいに悩まずバッサリ切り捨てている。
でも、心のどこかで「大切な人」という認識はあり、「ちゃんと食べてる?』など、気にかけたりもする。
次第に、とわ子と三人の元夫が四人で一つのチームが出来上がった感じさえもした。

かごめの事も、母親の事も、父親の事も、元夫達とのことも、過去のことではなく、その時幸せだったら、そこに行ってその人と手を繋げばいい。愛せばいい。

言い換えれば、新しい家族のような関係。
その時々で形や目的を変える、そんな関係。
既存の恋愛、家族という言葉では表せられない関係を、とわ子は築いたのかも知れない。

だからこそ、網戸を直して、はめられたのは父親だったし、母親の恋愛相手として登場したのは、かごめを思わせる人だった。
三人の元夫たちとボーリングなんてできちゃう。

私がみていたのは、恋愛ドラマではなく、人間ドラマ、家族ドラマだった。

だからこそ、等身大のとわ子に私は自分を投影できたのだ。
迷う事も、立ち止まる事も、笑う事も、人の悪口言う事も、全て自分。だけど、1人じゃない。
私は色んな人に起こしてもらって生きている。

ここにいる。



そんなドラマに触発されて、妄想小説まで書いてしまいました。内容としては、私の考察を表現したものになっているので、お暇があれば読んでいただければと思います。







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