母を「毒親」なんて呼びたくないのに。
私の母は、世間的には、おそらく毒親だ。
母のことを知らない人に、母との過去を話すと、殆どの人、いや、皆が「毒親」と言うだろう。
私が中学校になってすぐのことだっただろうか。いわゆる思春期真っ只中だった私は、何を思ったか、ある日母の携帯をこっそり見てしまった。今思うと、うっすら当時の母の行動に、違和感を持っていたのだと思う。
母は当時パートで働いていた職場の、20個ほど歳の離れていたであろう若い男と、そういう関係であった。私が母の携帯を見て憤慨し、学校終わりに制服のまま、仕事中の母に、ふざけんな、というような内容の手紙を持って行ったのを覚えている。怒りで握り潰した紙が、ぐしゃぐしゃになっていた。私が裏切られたから、というより、最愛の父を平気で裏切っていたことが、何より許せなかった。
しかし、不思議なことに、私はいつの間に、母のその行動を受け入れていた。不倫相手がバイトを辞め、彼が地元の遠い県に帰っても、飛行機に乗って何度も会いに行く母に、何の違和感も感じなくなっていたのだった。むしろ、普段から父の悪口を毎日のように聞かされていた私は、ある時から、「父が悪いから母はこんな風になってしまったのだ」と、父を恨むようになっていた。あんなに大好きだった父を、だ。
家庭での父と母との仲は、物覚えがついた頃から険悪だった。歳の離れた兄が一人いるが、私が小学生の頃には、他県の大学に通うために既に家を出ていたし、歳が離れているからか、共通の話題も特になく、嫌い、とかではなかったが、幼い頃から今現在も、決して親密な関係ではない。だから当時、母の件を相談することもなかったと記憶している。
若い男といつの間にか終わっていた母は、今度は妻子のいる、私の父ほどの年齢の男と、再度そういう関係を持ち始めた。今思うとあり得ないのだが、私は何回かその男と会わされたりした。母がどんな気持ちで、娘の私を自分の不倫相手に会わせていたのかは、今考えても分からないし、分かりたくもない。
父は母の不倫に気付いていただろう。寡黙で、博識で、多才な、私のことを何よりも溺愛していた父。私も大好きだったはずなのに、当時母に洗脳されていた私は、父を嫌いになっていた。もしかしたら、私の今までの人生の中でもトップクラスに入るくらいの、大後悔である。
ある日、仕事終わりに呑んで泥酔して帰ってきた父が、私に向かって「ママと別れてもいい?」と言ってきたことがある。私はすかさず、「嫌だ!」と返してしまった。それ以来、父は私の前で、母に対しての不満を口にしたことは、亡くなるまでなかった。
もうこの世にいない父に、あの時の気持ちを聞くことはできない。いや、仮に生きていたとしても、聞かないだろう。
エンディングノート、というものを、私は父が膵臓癌に侵されてから初めて知った。毎日のように、朝から晩まで父の面会に行っていたが、病室の机の上に、それはあった。自分が死ぬまで絶対に見るなよ、と、何度も念を押された為、父が亡くなるまで、見ることはなかった。
母のおかげで、兄も私も、優しい子に育った。子育てをさせてくれて感謝している。本当は、老後は2シーターの中古車でも買って、二人でドライブしたかったけど、それは叶いそうもない。先に逝ってしまうけど、ごめんな。
母宛てのメッセージに、そんなようなことが書いてあった。死ぬ前に、「お前を恨んでいる」。そんなこと、例え思っていても書けないだろう。嘘も混じっていたかもしれない。しかし、母の過去の愚行を知りつつ、そんな風な言葉を残した父を、私は心から尊敬している。抗がん剤治療や薬の副作用で苦しみ、せん妄で、人が変わったようになってしまった父の姿は見たが、最期まで、父は、私の知る、立派な父のままであった。
母は毒親だ。
今こうして当時の記憶を遡って書いていても、そうだと断言できる。
だが、私にとって、母は母なのである。
いくら過去に色々あり、母を恨んでいたとしても、母は、私にとって、学生時代毎日欠かさずお弁当を作り、美味しい晩御飯を作り、母なりに私を愛している、母なのである。
「毒親」と口で言うのは簡単だ。
しかし、毎月父の墓へ行き、ピカピカに墓を磨き、毎日仏壇に熱いお茶や、コーヒーや、ご飯を供え、必死に父の供養をする母の背中を見ると、心の底から母を恨むことが、私にはできないでいる。