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近代短歌(2.1)与謝野鉄幹(1873-1935)
いたづらに何をかいはむ事はただ此太刀にありただ此太刀に
いたづらに何をかいはむ事はただ此太刀にありただ此太刀に
【徒ら】いたずら
「いたづら」は、古語では「①無用だ、無益だ、空虚だ②することがない,暇だ③空いている,使われていない」ほどの意味を持つ。原義は「期待・行動しても意味がない,役に立たない」だと考えればいいか。ここでは①の意味で用いられている。
「いたづらになる[なす]」で「無駄になる[する]」のほか「死ぬ[死なせる]」を意味する……と古語の話になってしまった。
もちろん現代語の「悪戯」も語源は同じだ。
【太刀魚】たちうお
「太刀」は季語になっていないが、「太刀魚」は秋の季語になっている。全長1.5mにもなる大きな魚だ。
太刀魚の影やひらりと磯の波 無諍
秋かぜに驢馬なく声もさびしきを夕は雨となりにけるかな
秋かぜに驢馬なく声もさびしきを夕は雨となりにけるかな
【秋風】あきかぜ
「秋風」は秋の季語になっており、初秋から晩秋に吹く風を広く表す。
石山の石より白し秋の風 芭蕉
秋風や鷹に裂るゝ秋の風 千代女
淋しさに飯をくふなり秋の風 一茶
【驢馬】ろば
wikipediaには「日本では、時代を問わずほとんど飼育されていない」とある。異国のイメージがあると考えるべきか。あるいは西洋のように「愚か者」「のろま」というイメージかもしれない。
【夕】ゆう
単に「夕焼」といった場合は夏の季語であり、「秋(の)夕焼」といえば秋の季語になる。「春(の)夕焼」といえば春の季語、「冬(の)夕焼け」といえば冬の季語だ。
秋夕焼わが溜息に褪せにけり 相馬遷子
【なりにけるかな】
断定「なり(連用)」+完了「に(連用)」+過去「ける(連体)」+詠嘆「かな」
「夕方になって雨が降り出したなあ」と考えればいいか。
尾上にはいたくも虎の吼ゆるかな夕は風とならむとすらむ
尾上にはいたくも虎の吼ゆるかな夕は風とならむとすらむ
【尾上】おのえ
「峰(を)の上」から、山の頂上の意。
【風】かぜ
「風」がつく語は多く夏の季語になっている。
・南、東南から吹いてくる風を「夏の風」と呼び、特に強いものを「夏嵐」と呼ぶ。
・青葉のころに吹く、やや強い爽やかな風を「青嵐」と呼ぶ。
・水・青葉の上を伝って匂いやかに吹く、青嵐より柔らかな風を「薫風・風薫る」と呼ぶ。
夏風や粉糠だらけの馬のかほ 来山
青嵐定まる時や苗の色 嵐雪
船の子のひだるき顔よ風薫る 乙二
うしろよりきぬきせまつる春の宵そぞろや髪の乱れて落ちぬ
うしろよりきぬきせまつる春の宵そぞろや髪の乱れて落ちぬ
【春の宵】はるのよい
「春の宵」は春の季語になっている。『カラー図説 日本大歳時記 春』によれば、「宵は、夜と同義に用いられる場合と、夜の入って間もないころの初更をいう場合とある」が、俳句では後者の意で用いるという。
漏る雨を人と語るや春の宵 太祇
目つむれば若き我あり春の宵 高浜虚子
御籤ひけば二十一吉とあらはれぬ神も知らじな我が思ふ人
御籤ひけば二十一吉とあらはれぬ神も知らじな我が思ふ人
【御籤】みくじ
「初神籤」は新年の季語になっている。ここでは「初詣」の例句を載せる。
人々を率てちらばりて初詣 高浜虚子
【解釈】
「二十一吉」は「(通し番号)二十一(番の)吉」ということだろうか。「我」は「思ふ人」と恋愛関係になれないのに、「神」はそれを「吉」という。そのことを「神も知らじな」と嘆いているのか。
春日すら父に嘖ばえ黙をれば母なぐさめて餅食はせます
春日すら父に嘖ばえ黙をれば母なぐさめて餅食はせます
【春日】はるび
「春の日」「春日」は春の季語になっている。俳句では、この語が春の太陽を指す場合と春の一日を指す場合とがある。この歌では後者だろう。
まん丸に出れど永き春日かな 宗鑑
猫の目のまだ昼過ぎぬ春日かな 鬼貫
【嘖ばえ黙をれば】ころばえもだおれば
「嘖ばえ」は叱責されること、「黙」は黙っていること、「をれ(居れ)」は動作の継続(…している)を表す。父に叱責され黙っていた私を、「母」は「なぐさめ」ようと「餅」を「食は」してくれたのだ。
【餅】もち
「餅」自体は季語ではないが、多種の餅が季語になっている。
新年:「鏡餅」
春 :「蕨餅」「草餅」「桜餅」など
夏 :「柏餅」「葛餅」など
冬 :「餅つき」
小舟して島の祠へ鏡餅 野村泊月
おらが世やそこらの草も餅になる 一茶
重の内暖にして柏餅 高浜虚子
餅つきや焚火のうつる嫁の皃 召波
※「焚火」は冬の季語