自由律短歌集『十一人 : 第一歌集』を読む(二)
はじめに
書誌情報、執筆の動機などは(一)を参照してください。
吉川夏子「菊の感覚」
「菊の感覚」もただごと歌に近いものが多い。
しかし、感情と実景(映像)の組み合わせはとても短歌的で、あまり自由な表現ではないように感じた。
松田稔「富士が見える」
「富士が見える」の主体は患者だ。既に入院しなければならない病を負う身にとっては、「手」の傷さえもまじまじと見つめざるをえない。
「富士」を楽しんで「あるいて」いても、「青空」に痛みを感じながら「歩みつづけてゐる」。病は喜びの隙間から降りそそぐ。
説明不要だろう。二首目のややもすると軽薄な目線は、ここでは病身の悲痛をうまく伝えているように思う。
このような歌はどこか自由律俳句に近いものを感じる。「どうしようもない私が歩いている」の種田山頭火、「咳をしても一人」の尾崎放哉、「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」の松尾あつゆき、「何もないポケットに手がある」の住宅顕信など、孤独は自由律俳句の専売特許だった。
もうひとつ自由律俳句に近いのは現実の存在感である。〈どうしようもできない現実〉とそれが喚起する〈切実な心情〉に自由律俳句の魅力はある。「富士が見える」のの現実は重い。ただ上に挙げた自由律俳句ほどではない。
岡戸伴助「夜の遠街が低く見える」
「だれも見てゐないと思つ」たのは「私」だ。それを心に現れた「あなた」のせいにしている。この戯れは楽しい。
と思ったら、「私」の恋は破滅していたらしい。深刻な歌だったとは。読めなかった。
定型の歌もある。主体が誰かを非難するような歌が、結句で「われ」と反転する。このレトリックはやはり楽しいものだ。
古川たち子「新しい夢」
感情と実景の組み合わせが短歌的というのは、その両者が文字化されているという意味である。俳句はこの感情を暗示する。この歌では詞書と「打ち明けられてゐる」の措辞が実景だが映像としてはぼやけており、主体の内面のゆらぎばかりが見える。
相談を受けた自分より相手のほうが優れていることの痛み。
小関茂「太陽を載せた汽船」
「ちつぽけにちつぽけになつて」の反復と、「いちめんの麦の芽の中を」の助詞「の」の繰り返しが、音数律とは異なるリズムを生みだしている。また、この二つのリフレインが主体と麦畑を鮮やかに対照している。
こうもあけすけに弱点をさらされると、彼を受け入れなければいけない気がしてくる。
彼の弱さとともに、都会の雰囲気がうまく表現されている。
山奥の「立派な大都会」に迷い込んだ「私」は、人工的に統御されすぎた景観に不安を感じていた。ふと「或る漠然とした一つの予感」が浮かぶと、その高まりとともに街は「病気のように」歪んで見えはじめ、最高潮に達した瞬間、景色は決定的に転変する。
萩原朔太郎「猫町」のあらすじはこのようになるだろうか。都会の静寂が一瞬にして崩壊するだろうというあいまいな確信を簡潔に表現しえている。
一首目で沈んだ太陽が汽船の中に入ったという見立てが成立し、二首目で汽船と海の色を対比させる。この準備は三首目に活かされ、太陽を包み込んだ白い汽船が透明な水の上を滑っていくという、極めて幻想的なイメージに集約されることになる。連作の魅力がつまっている。
田中島理三郎「色彩のない夢」
とても構成的な連作である。その筋をたどることにしたい。
主体のいる街には色がない。都会的なイメージだが、実際に都会にいるのだろう。
「私」には好きな「女」がいたが、ほとんどアプローチできないまま「女」は結婚してしまった。
この主体の姿は、現代にあってリアリティーを増してしまった感がある。
「雪解け」という実景は精神の回復や新たな出会いを予感させるが、主体は悲しみに沈んでだままでいる。季節はときに人を置き去り、人はやがて季節に追いつくのだろう。
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