フィルムカメラを持ち歩こうと思う。
そのとき、確かに、かけがえのない瞬間を過ごしたという記録を、限りある何かで残したいと思った。
だから、フィルムカメラ。
3ヶ月に1台くらい、『写ルンです』を買って、昨日まで知らない土地だった始発電車の駅のホームを、合宿最終日に2人で歩いた海岸線を、久しぶりに会えた親友たちを、その残像を、確かなものとして残したい。
そんな欲求に駆られたのだと思う。
でも、その残像に私がうつる必要はなくて。
私は「それを確かなものにする」という動作の主体として、最も大切にしたいものを、この世界に刻み付けたいものを_すべてを残すのは不可能だから_選択して、掬い上げる、そんなことをしたい。
そういえば、高校2年生か3年生のときに、こんな文章を書いていた。
このころから、私の世界観は、そんなに変わっていないのだろう。3年経った今でも、拙い表現だなとは思うけど、あまり違和感はない。
きっとこの頃も、今と変わらず、キラキラした宝物みたいな時間を、沢山過ごして、でも、すぐに薄れていく残像に、物寂しさを覚えていたのだろう。
モチーフも、ずっとずっと好きな『水』で、でも今よりも少しだけ淡いかわいらしい水色をしている文章。(ここで、好きな題材、『水』と『夜』について書いているnoteをちゃっかり宣伝させてください。)
きっと私は、水だとか夜だとか、存在が「あいまい」なものに魅力を感じて、でも、だからこそ、どうにかして残したいという願望がある、矛盾だらけの人間なのだと思う。
『この文章の書き手はどんな人?』と興味を持ってくださった際は以下の自己紹介noteをご覧ください。目指す人間像や自身の価値観について触れているので、少しだけどんな人間かお伝えすることができると思います。
フィルムカメラで海を撮ったときに出るような、懐かしくて光のさしたような色が好きだ。透明感があって、少しだけノイズが入った質感が好きだ。
今どきのスマホで撮った、写真や動画なんかは、画質は良いし音や時間の流れまで、沢山の情報を残すことができる。けど。
でも、あまりにも鮮明に、そして正確に、情報を記録してくれるせいで、それが残像であることを、認めたくなくなってしまう気がする。諦めがつかなくなってしまう。
その点、フィルムカメラは良い。
実際に確かにあったその瞬間の、『証拠』には成り得るけど、それに気分良くひたれるほど、色味も質感もはっきりとはしていない。大切な、でももう二度と取り戻すことのできない瞬間を、諦められる。
限りあるフィルムだからこそ、シャッターを切るその瞬間がもう二度と来ないのだと、諦めをつけることができる。『二度と来ないから撮る』という意識で、フィルムに、その瞬間の残像が消えないうちに、刻み付ける。
フィルムカメラは、そのかけがえのない瞬間を、確かなものにしてくれるけど、同時にその瞬間を諦めさせてくれるのだ。
だから、フィルムカメラが好きなんだと思う。
確かに「あった」、そのかけがえのない瞬間を、取り戻せるとは思わない。
でも、それがあったという事実を、形に残しておきたい。そうじゃないと、諦められない。ずっと、ずっと、残像が薄れていくことに泣いてしまう。
だから、私は、フィルムカメラを持ち歩いて、どうにか、その瞬間と折り合いをつけて、前に進んでみようと思う。
2025年は、沢山、素敵な写真が撮れますように。