西方見聞録_day2_イドラ島と槇文彦
ギリシャ2日目。
僕が一番好きな建築家の槇文彦さんが著書の中でたびたび言及していた、「イドラ島」へ向かうことにした。
朝6時半に起きて、電車に乗り港へ向かう。
フェリーのチケットをオンラインで買ったのだけれど、チケットには乗り場などの情報は何もない。
買ったお店の住所をgooglemapへ打ち込み、港から反対方向へ徒歩5分のその場所へ向かってみることにした。
乗船時間まで残り45分。(20分前にはチェックインとチケットに記載が)
ところがどっこい行ってみるとなんと店そのものがない!!
これはもしや詐欺か?そんな不安がよぎるがまだあきらめない。
近くにあったほかのフェリー屋さんに入って、このお店は存在するかあるならどこかと聞くと、あるよとの返事。一安心するも時間はこの時点で残35分。急がねば。走って言われた方向へ向かう。
10分弱小走りで移動すると、その会社のフェリーがあり乗ろうとすると、
「ちがう、乗り場は9番」
といわれる。どのフェリーがどの乗り場かわかりやすくサインをつけてくれ!と内心思いながら、親切にしてもらったので笑顔でありがとうと言い。9番入口へ走り出す。残り25分
そして思っていた以上に9番門が遠くて本当に焦る。
何とかチケットを売り場にたどり着くと、18分前くらいだったけどあっさり紙の乗船券を発行してくれた。
どうやら船が10分ほど遅れていたみたい。
ギリシャの適当さに翻弄され、その適当さに助けられる。
朝からいろんな意味で汗だくになる。大変な一日の始まりだった。
イドラ島は車を禁止しているので、人も物も交通の役割はすべてロバが担っている不思議な島だ。起伏が多いのもそうだけれど、文化的にも車が入ってくることを禁止することを島民で決めたようだ。
槇さんはこの島を「群造形」という考え方を説明するときに使っている。
それは、すっごくラフに言うならば、
・目印となるような建築があって、それをもとに道や街並みができる
わけでもなく
・道路の基本線を描いてそこにまちの要素を詰めていく
わけでもなく
なにか共通のルールを持ちながら街並み全体が構成されていく
というような内容です。
島について、一歩街の奥に踏み入れるとその言わんとすることが一瞬で体で分かったような気がしました。(浅はかかもしれません。)
地形としての起伏があって、その起伏に対して入口があって、建物を作る延長線上に道が作られている。あるいは道の延長線上に建物が作られている。
そんな様子が感じられる街並みで、あまりにも面白くて、休憩をはさみながら計5時間ほど、街の中を歩き回っていました。
というわけでかえって来ました。
帰りのフェリーがものすごく揺れがひどく、人生で初めて乗り物酔いをしました。酔いやすい人はいつもこの感じと戦ってるんですね。
車を運転するときはより一層気をつけようと思いました。
私の周りの人は、7割方吐いていたのでよっぽどだったんだと思います。
ここからは、余談なのですがイドラ島へ行ったことで建築が持つ「白」の意味の違いと、槇文彦さんについて考えが深まるきっかけとなりました。
イドラ島が持っている「白」の壁面は、あの強い日差しに対してのもので風土的に一番合う色なんだと思います。そういった街だからこそ、白い街並みがマッチするんだと強く感じました。素材としての白なのです。
一方で、近代建築が持ってきた「しろ」はある意味で物が持つ情報を漂白し、素材性を上書きしてしまうような性質を持っていて、コルビジェの白い建築などから影響を受けて今まで来ていると思います。これは情報としての白です。(そのコルビジェは地中海の白に影響を受けたといいますが。)
一方で槇さんが作ったヒルサイドテラスやスパイラルは、しろい(白く見える)のでその文脈を引き継いでいるかのように思えますが、僕はそれよりもイドラの地中海的な、太陽の光に対する様な、高貴な「白」としてあの色をえらんだのかなと思えてなりません。
現に槇さんはその高貴さを表現するときに、スパイラルでは光をきれいに反射する鉄板を使っていたし、中は石を使っていたり、ヒルサイドテラスも床の舗装は石だったりとコルビジェ同様にその地中海的な感じがすごくするなと思えてきたのです。
槇さんが持つ、建築の端正さはコルビジェ同様に白や光に対する素材へのこだわりであり、今の建築ではほとんど見かけない圧倒的な建築家だなあと改めて気づきました。
槇さんの建築に共通する石の使い方のルーツはここら辺からきているのだということに、街を歩くことを通じて気が付くことができ本当にうれしかったです。
僕は槇さんが作った福井県立図書館に子供のころ、毎週末通っていました。今思い返せばあんなに美しく、けれども親しみやすい空間で勉強ができていたのかと思うと本当に恵まれていたなあと思います。
先日槇さんが亡くなり、本当に惜しい人を亡くしたなあと思うばかりです。
ご冥福をお祈りします。
旅の記録なのになんだか湿っぽくなってしまいましたが、槇さんと対話しながら街を巡っているようで本当に楽しかったです。
それではまた。