【第8回】How They Became GARO―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈胎動の章 / 1〉
◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta
■“CS&N みたいにやらないか?”
まるで “カットアウト” のように終わってしまった――。
後年の幾たびかのメディア発言の中で、大野真澄は日本版『ヘアー』の突然の終焉について、こんな風に表現していたことがある。
最初にオーディションが行われたのが 69 年の 9 月であり、公演中止が 70 年の 2 月末。日本版『ヘアー』は、その期間も、半年にも満たないものだ。
しかし当事者による後年の回想などを見聞きすると、それは公演そのものだけでなく、出演者=“トライブ”同士の交流ということも含めて、極めて濃密な時間であったように察せられる。
この半年、そして終了後のしばらくの時期には、互いの部屋を行き来するような、友人付き合いもそれぞれにあったようだ。
堀内に聞いた話では、どうやらそんな“トライブ”たちの集まりの中に、案外社交的だった、という日高が混じる、ということもあったらしい。
また、『ヘアー』公演中には、著名人も含め、楽屋に訪ねてくる人たちも多かった。大野によれば、そうした中で知り合った人々も少なくなかったという。
だが、そんな『ヘアー』前後の時期のエピソードの中で、堀内、日高、大野の3人の歩みにとって共通の、最も重要となる出来事をもし選ぶとするなら。
やはり、この一点に絞られることになるのかもしれない。
それは、彼らがこの公演期間中にCS&N――〈クロスビー、スティルス&ナッシュ〉というグループ(のちにニール・ヤングが加わり〈クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング〉=CSN&Y となる)、そしてその音楽を知ることになった、ということである。
――時間を再び、東横劇場での『ヘアー』公演中まで巻き戻し、そこから始まるストーリーを、順に追ってみよう。
■小坂忠とエイプリル・フール
きっかけはトライブのひとりであった、小坂忠だった。
1948年7月8日に東京に生まれ、堀内とは同学年、大野とはひとつ違いと、年齢も極めて近かった小坂ははじめ、柳田ヒロらと組んだ〈ザ・フローラル〉というバンドで活動。1968年にはGSブームのさなか、早くもプロとしてデビューを果たしていた。
次いで1969年には同バンドが発展した〈エイプリル・フール〉を柳田、細野晴臣、松本隆らと結成。
六本木のザ・スピード、あるいは新宿のディスコ《パニック》などを根城とし、高い演奏力、そしてドアーズ、レッド・ツェッペリンなどを見事に歌いこなしたという小坂のヴォーカル・パフォーマンスで、“ニューロック”時代のうねりの中で短くも存在感ある活動を行ったと伝えられる。
その解散を経て、小坂は堀内や大野と同様に『ヘアー』に参加していた。
小坂と大野は『ヘアー』の少し前から、すでに親しい友人でもあった。
大野がキッド兄弟商会の舞台に立っていた頃、小坂はエイプリル・フールでロックを歌うと同時に、演劇やアートの世界にも共振し、当時、渋谷・桜丘町の線路裏手にあったキッドの常設小屋《ステージ・ショップ HAIR》※にもよく顔を出していた。
つまりここでふたりは出会い、大野の方もパニックでのエイプリル・フールのステージに足を運ぶなど、次第に交流を深めていたのである。
一般にはあまり知られていないが、その頃(69 年)キッドが少数を自主制作し、エイプリル・フールがバッキングを務めた『LOVE&BANANA』※というEP盤がある。
キッドの舞台『東京キッド』の劇中歌集という意図で制作されたというこのEPの、そのB面の締めくくりには、じつは「BANANA」と題された、大野の作とクレジットのある、短いフレーズの小品が収められていた(バナナとは同舞台での大野の役名)。
「ビートルズの「ヘイ・ジュード」を真似て、ただバナナ、バナナと言ってるだけの曲」、と大野は言うが(取材時の発言)、いまとなってみればこんなちょっとした録音も、小坂や大野をはじめとする人々が“出会った頃”を偲ばせる、貴重なドキュメント、だと言えるかもしれない。
フローラルもエイプリル・フールも、音楽性の高さから一部での熱心な支持はあったと言われるものの、この時点では決して、世間を賑わすようなレコード・セールスがあったわけではなかった。
小坂もまた、おそらくはまだ明日を模索する“これから”の若者のひとりとして、『ヘアー』に飛び込んでいたのではなかったのだろうか。
――そんな小坂が、東横劇場での『ヘアー』の公演期間中、堀内と大野、それぞれにCS&Nというグループの存在を教え※、さらには“こういうスタイルのグループをいっしょに組まないか?”、とふたりに持ちかけた、というのである。
■西の空に煌めいた音楽
それは、堀内の記憶によれば、公演中のとあるオフ日に、彼が小坂の部屋に招かれた際のことだった。その日堀内は初めて、小坂からニール・ヤングのLPと、そしてCS&NのLPを聴かされたのだという。
一方で大野の方は、やはり公演中のある日、東横劇場の楽屋で小坂に薦められ、CS&NのLPを借りたのだ、と想い出す。69年の年末、ないしは70年初頭の話だ。
CS&Nの存在は、同じ69年の夏、ニューヨーク州郊外で3日間に渡り(最終的には少し延び4日にまたがって)行われたビッグ・イヴェント《ウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェア》への出演もあって、すでにアメリカでは大きな注目の的となっていた。
広大な牧場を会場とし、じつに30組以上が出演した、この大きな野外ロック・コンサートには、ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、など多数の大物アーティストたちが登場したが、のみならず、そこに40万人以上という驚くべき数の観衆が訪れたということも、話題だった。
『ヘアー』トライブの中にはこのコンサートを実際に目撃した者もいた。シー・ユー・チェンだ。
69年7月末に在籍していたフィンガーズが解散すると、彼は同僚だった成毛滋と共にアメリカを見聞するために日本を出立し、そこで偶然にこのウッドストックの開催を知ると、その現場に身を投じていたのである。
ポール岡田の『HAIR1969 輝きの瞬間(とき)』には、シー・ユーが『ヘアー』のリハーサルの合間、ウッドストックでの体験をトライブたちに熱心に語っていた、という場面も登場する。
CS&N の音楽、その演奏は、そんな話題のウッドストック・フェスの、ハイライトのひとつにも挙げられるものだった。
“西の空に煌めく音楽(Tinking Western Sky Music)――”。ジミ・ヘンドリックスはその音楽を、一説にこう表現したという。
西の空(CS&Nの拠点、アメリカ西海岸のことだろう)に煌めいた響き、それは“ハーモニー”と、“アコースティック・ギターを主軸としたロック・サウンド”だった。
元バーズのデヴィッド・クロスビー、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、元ホリーズのグラハム・ナッシュという 3 人の声が絡み合う、そのハーモニーはたしかに眩く、鮮烈だった。
様々な楽器が混在しつつ、独特なアコースティック・ギターの音色が特に耳を惹くその音作りにしても、見渡せばヘヴィなサウンドや長尺なブルース・ベースの曲が主流となっていたという“ニューロック”時代にあっては、おそらくは新鮮と響くものだったのではないだろうか。
さらに言うなら、しばしば“スーパーグループ”と形容されることもあったように、それぞれにヒット曲を持つロック・バンドを経た(そして、個性の際立った)3人が集まり、それぞれが対等な立場で接し合い、音楽を織りなす――、そんな在り様は、この60年代末という、変化に満ちた季節を体現するものでもあったかもしれない。
その CS&N のように、ハーモニーを手掛けるグループをやってみないか、と、小坂はふたりに持ち掛けたのだ。
『ヘアー』で出会った頃の堀内の、その当初の印象について大野は、物静かなタイプだったという堀内が、楽屋に自分で持ち込んだガット・ギターを始終離さず、ひとり黙々とつま弾いていたこと。さらに、その腕前が感心するほどのものだったということを、しばしば口にする。
大野によれば、そんな堀内の姿をどうやら、小坂も見ていたらしい。
ギターの上手い堀内と、旧知の大野、そして、自身。この3人で構成するグループを組もう、というのが、小坂の考えたプランだった。
音楽というのは不思議だ。CS&N の曲を小坂に教えられ初めて触れたとき、“最初は全然いいと思わなかったけど”※と大野はよく当時の印象を口にしているし、それは堀内の方も同様で、じつは最初は同じように“ピンと来なかった”、のだという。
ガロを知る者には意外かもしれないが、はじめは、こんな具合だった。
だが、わからないことに、いや、だからこそ面白いことに、ふたりの抱いたという、そんな最初の曖昧とした印象は、その後しばしの時を経て、彼らの中で次第、次第に変わって行くことになった、というのだから・・・。
この頃、この小坂、堀内、大野の 3 人がたった一度だけ、人前でトリオを組み、歌声を披露したことがある。
堀内と大野、ふたりからの証言によれば、それは、まだ『ヘアー』公演中だった 70 年 2 月 8 日に行われたという、あるトライブ同士の、結婚式※の席上でのことだ。
当日の公演終了後、トライブと近親者、牧師だけが立ち合い、東横劇場の舞台上でそのまま行われたというこの結婚式で、3 人はビートルズの「ビコーズ」を余興として歌い、そこにいた人々の前に、そのハーモニーを披露したのだという。
クローズドな宴のことだっただけに、この日のハーモニーが、どんな風に響いたのか、いまとなってはわからない。はっきりしているのは、彼ら 3 人が人前で組み、歌ったのは、残念ながら、この一瞬だけだった、ということだ。
――やがて『ヘアー』が“カットアウト”を迎える。
小坂とのトリオ結成というプランは、結局、当時の小坂とふたりとの活動に対するちょっとした考え方の違い、そして『ヘアー』中止の混乱から、まとまりを見せることはなく、うやむやに立ち消えることになってしまった。
小坂はこの3人で、いったいどんな音楽を描いてみようとしたのだろう。
小坂自身はその後、“グループ”を組むことはなく、ソロ・シンガーとして独自の道を歩んで行くことになる。
だが一方で、堀内・大野のふたりは小坂がもたらしたこの一件をきっかけとして、CS&N というグループの奏でるサウンドに、それぞれ次第に、しかし着実に、さらに大きな魅力を感じて行くことになるのである。
■ウッドストックがやってきた
CS&Nが出演した、69年夏のビッグ・ロック・イヴェント《ウッドストック》。
音楽誌に時折載せられる記事などから想像するしかなかったこの海の向こうのコンサートの、その光景を目の当たりにできるチャンスが日本のリスナーのもとに巡ってきたのは、現地での開催から一年が経ち、また日本版『ヘアー』の中止からは約半年が経った、70年の夏のことだった。
すでにアメリカではこの年3月に公開が始まっていた、同コンサートを記録したドキュメンタリー映画『Woodstock(邦題:ウッドストック / 愛と平和と音楽の3日間)』の日本上陸が決定し、いよいよ7月25日からは、各地(東京は丸の内ピカデリー、大阪は梅田東映パラスなど)にて上映がスタートすることになったのである。
そんなニュースが届く頃。堀内や大野の周囲には、もう一人、やはりCS&Nのサウンドに触れ、魅了されてしまったという友人がいた。
日高である。
日高が CS&N を知ったのが何をきっかけとしてだったのかについては、じつはいまひとつ、はっきりしない。小坂から教えられた堀内が日高にも教えた、という話もあるし、そうでない日高の発言もある。
ただ、いつ頃彼がCS&Nに触れ始めていたのか、という点なら、おおよその見当はつけられるかもしれない。
なぜなら本人のインタビュー発言(『失速』)を読む限り、最初に日高が手に入れたというのが、彼らの代表曲である「青い眼のジュディ」の、LP とは異なるショート・エディットが収録されたシングル盤だった、という話が見つけられるからだ。
国内盤だとすれば、それは 70 年 3 月に日本グラモフォンから発売されたもの(b/w ロング・タイム・ゴーン、DT-1143)だろう。ちょうど『ヘアー』が終演となった頃に発売されたレコードである。
また併せて記しておくなら、CS&Nの国内盤が最初に出たのは 69 年 11 月のことで、それはシングル「マラケッシュ行急行 b/w どうにもならない望み」(DT-1127)だった。その直後の12月にはファースト・アルバムも国内盤(MT-1086)が出されており、これはアメリカで同作が出てから、約半年後のことだ。
いずれもが『ヘアー』の公演前後の時期の出来事であり、この頃彼らのサウンドに触れるということが、ほぼオンタイムの、最新の話題だったことがそこからは理解できるように思う。
エンジェルスでも、ミルクでも、洋楽のカヴァーに没頭していた堀内や日高のことだ。CS&Nを知り、その魅力にのめり込むうちに、おそらくはそのサウンドをコピーし、自らのものとしたいと思っていたに違いない。
大野は大野で、この頃から次第に、そのハーモニーについては「自分なりに音を取り始めていた」、と振り返る。
そんな折に届いた、『ウッドストック』公開の報。そして、この映画に登場するアーティストのひとつとして、当然ながら名を連ねていたのが、CS&Nだった。
じつは堀内、日高、大野の3人が初めてこの映画を見たのは、本上映時ではなかった。大野曰く、それは先行して都内で行われていた、その試写会のひとつで、だったのだという。
「これ、誰かがくれたんだよね、招待券を。最初、ウッドストックは試写会で見たの。おれとトミーとマークで」(大野真澄。2023年、筆者取材時の発言)
この『ウッドストック』の試写会で筆者が当時の雑誌告知※から会場名を把握できているのは、70年7月2日の丸の内・東商ホール、7月16日の内幸町・イイノホールのふたつ。
前者には、はっぴいえんどのメンバー、植草甚一らも足を運んでいたとも伝えられる。ほかに会場は不明だが、先駆ける6月30日にも試写会があった、という記録も見つけられる。
大野によれば、自分たちが見たのは銀座のヤマハホールの記憶がある、とのことだが、これは日付がわかっていない。
試写には一般向けのほか、業界向けもあるため、ひょっとしたら情報がオープンになっていない日もあったのかもしれないが、いずれにしても、本上映前ならば6月末か、7月上旬あたりの出来事だったはずだ。
そんな『ウッドストック』のなかでも、やはり最も彼らを感激させたのが、CS&N による「青い眼のジュディ」のライヴ・パフォーマンスだったのである※。
今日、『ウッドストック』を見て、3時間以上もある映像に興奮するか、退屈するか――、そこに映し出されている光景をどう受け止めるか、このコンサート自体に何を見出すかは、人それぞれかもしれない。
だが、来日公演でもない限り、洋楽アーティストの“動く姿”には、おいそれと触れるべくもない時代。仮に運良くテレビで紹介されることがあったとして、見逃せばそれっきりの時代。
そんな頃、少なくとも日本において、この『ウッドストック』公開がいったいどれだけ、堀内、日高、大野にとって“福音”となったか、想像してみてほしい。
まして、スタジオ録音とは異なり、“アコースティック・ギターのみをバックに3人がハーモニーを奏でる”という、そのシンプルなフォーマットから繰り出されるCS&Nのグルーヴ感あふれるライヴ演奏(彼らのステージでは、アコースティック・セットと呼ばれた)――。
それは、おそらくは堀内たちに、大いなる刺激を与えたのではないだろうか?※
■スクリーンに見つけた“ニュー・サウンド”
中でもこの試写を見て『ウッドストック』、そしてCS&Nの映像に衝撃を受けた様子だったのが、日高だった。
その後、東京での本上映が丸の内ピカデリーではじまると、日高はこれにも足を運んだ。ガロ時代の本人の述懐に目を通せば、少なくとも彼がこの頃この映画を見るために、(試写も含め)3 回は通ったことが読み取れるだろう。
しかも、どうやらそれは映画そのものを見た回数とイコールではなかったらしい。
日高本人から話を聞いた、という人によれば、なんと――、日高は日がな一日、映画館に入り浸り、『ウッドストック』だけを何度も何度も、熱心に見続けていたのだという。
“あれ、3時間くらいあるんだよね”
苦笑いを交えながら、わずか10分にも満たないCS&Nの登場シーンのため、長時間の上映を幾たびもループしたことを、日高はこう想い返していたそうだ。
映画館にまだ入れ替え制がなく、一度入場すればその日の終映まで居続けることも可能だった、そんな時代の逸話だろう。
だが、日高は果たして、単純にCS&Nの姿を眺めたい、そのためだけにピカデリーに入り浸り続けたのだろうか?
いや、それにはやはり、理由があったのである。
たしかに初回の鑑賞時は、動くCS&Nにようやく触れることができた、ということで、日高もただただ、その喜びに気を取られっぱなしだったようだ(『ヤング・ギター』72 年 6 月号掲載の日高自身の寄稿など参照)。
しかし次に上映に足を運んだ時、それが一変することになる。
日高の目にふと留まったのは、画面でギターを操るスティーヴン・スティルスの“手の動き”だった。
彼らの演奏は、なにか“指の使い方”が違う(前掲書)――。
そのことに、日高は感づいたのだ。
これが、彼をピカデリーに引き留めさせた要因だった。
この“なにか違う指の使い方”こそが、おそらくは彼をその場から離れさせなかった、大きな理由だったのである。
探求心をくすぐられた日高は(本人の述懐と、周辺からのものだという伝聞によれば)、その晩自宅に戻ると、CS&N のレコードを集中的に聴き込むことになる。
そして、映画の記憶と、耳を頼りに手探りで少しずつ音を取って行ったという日高は――、夜も明ける頃には見事にその秘密を解き明かし、それをマスターしてしまった、というのである。
<その夜一晩かかって、僕はついに彼らのチューニングをとったのだ>(『ヤング・ギター』72 年 6 月号、日高)
“変則チューニング”――。
当時はまだ日本では馴染みも薄かったであろうそれこそが、日高が映画を観て、解き明かしたCS&Nのサウンドの“秘密”だった。
いくつかのインタビュー発言などによれば、日高はどうやら『ウッドストック』のサウンドトラック盤を公開前後※の早い段階で手にし、CS&Nのライヴ録音からギター・コードの響きに不思議なものを感じていたのだという。
日高はガロ時代、別の自筆エッセイのなかでもCS&Nのギター・サウンドの特異さについて触れており、その音色を“アコースティック・ギターで本当にこんな音がするのか”、と思わせるものだ、と表わしていたこともあった(『ライトミュージック』71年10月号への寄稿)。
だれもが新しいアイデアを求めていた、とも伝えられる時代。そんな頃に、単にエレクトリックかアコースティックか、ということではない、CS&Nの作品から放たれていた、それまでにない、新鮮な“ギターの響き”――。
そんな新たな音の秘密の一端を、おそらくこの時、日高は映画館のスクリーンのなかに見つけたのである。
<『ウッドストック』を 3 回目に見に行き、僕のとったチューニングと同じだと分かった時はもう嬉しかった。同じ押さえ方をしていてネ>(『ヤング・ギター』72 年 6 月号、日高)
そして、その“発見”を、彼は、自分の知る“仲間”たち、それぞれに告げるのだ。
大野の記憶では、こうだ。
「おれ、いまでも憶えてる。“わかったわかった!”って。こういうチューニングだったんだ、これで合ってるよ、って言って。あいつが喜んで持ってきたのを憶えてる、たしかに」(大野、筆者取材時の発言。2023年)
※以下第9回へ続く→第9回を見る
(文中敬称略)
Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus
主要参考文献:※最終回文末に記載。
主要参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など
(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿)
©POPTRAKS! magazine / 高木龍太
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