【第9回】How They Became GARO―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈胎動の章 / 2〉
◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta
■「自由広場」の夏
『ウッドストック』の件ばかりではない。70年の春から夏にかけて――、それは、堀内、日高、大野にとっては、様々なことが起きていた季節だった。
大野は夏になる前あたりから、深水龍作を中心に、中途に終わった『ヘアー』の“自主公演”という形での再演を試みようとしていた“ヘアー再演グループ”の音楽監督として、行動を共にするようになっていた(この“再演”については別の機会に譲る)。
一方で『ヘアー』周辺を通じて知り合った輪から、内田裕也、かまやつひろし、加藤和彦、といった様々な人々との交流も深めつつあったという。
そんな中で、ソロ・シンガーとして歌うことも始めていた。
たとえばその頃の活動のひとつだったというのが、70 年 7 月に神代植物公園・自由広場にて開催されたフリー・コンサート、《TOO MUCH IN JINDAIJI》への参加だ。
武蔵野の古刹――深大寺にも程近い、この木々囲む広場を会場としたこのコンサートは、 当時まだ目新しい、野外、それもいわゆるステージではない、自然のなかでのロック・イヴェントのひとつとして試みられたものだった。
7 月 11 日昼から 12 日昼にかけての2日通しで行われ、メインではフラワー・トラベリン・バンド、元〈ヘルプフル・ソウル〉のジュニ・ラッシュ※、モップス、ブラインド・バード、タージ・マハル旅行団など、当時の有力なニューロック系アーティストが多数出演した、というものである。
このイヴェントは、通称“キーヤン”の名で親しまれていた、木村英輝という人物が開催に携わっていたものだった。
京都市立美術大学(現・京都芸大)の講師出身という異色のキャリアを持ち、自身後年、画家(絵師)として活躍することにもなる木村英輝は、この70年代初頭、日本におけるロック・イヴェント・プロデューサーの、その草分け的存在だったと言われる人物だ。
初期の村八分などとの関わりも深く、内田裕也らと共に、この変化に満ちていた日本のロック・シーン初期の、牽引役とも言える位置にいたひとりである。
あの伝説の《富士オデッセイ》――それこそCSN&Yをはじめとする海外ミュージシャンも招聘した“日本版ウッドストック”としてこの夏に開催が準備されるも、諸事情から幻と終わったビッグ・ロック・イヴェント――の中心に携わっていたのも、木村だった。
そんな木村と大野は、セツ・モード・セミナー在学のあたりから友人・知人関係を通じて親交があり、頻繁な往来があったのだという。
「木村さんとは年は離れていたけど(木村は1942年生まれ)、友達みたいな関係だったから」(大野。2023年)。
件の“ヘアー再演グループ”のリハーサルが行われていた場所というのも、木村の縁だった。
この頃、富士オデッセイの事務局は原宿にあったセントラル・アパート内に設置されていたが、大野によれば、木村の提案から、そのビル屋上を稽古場として借用するようになっていたのである(2003年に第三書館から出版された木村の回想録『MOJO WEST』への深水龍作の寄稿にも、このエピソードは綴られている)。
人々の繋がりが繋がりを呼ぶような、そんな季節の話のひとつだろう。
その木村との繋がりから、大野もこのコンサートにソロとして出演し、そこで弾き語りを披露していたのである。
この《TOO MUCH IN JINDAIJI》の模様は当時、 NHKテレビ のドキュメンタリー番組『現代の映像』(70 年 7 月 24 日放送。サブ・タイトル「ツーマッチ 自由広場の若者たち」)にも取り上げられた。
29分という短い尺ながら、準備に奔走する木村らの姿と、当日のコンサートの模様がそこに活写されているが、じつはそのなかではなんと、アコースティック・ギターを抱え歌う大野の姿も捉えられており、十数秒ではあるが、大きく映し出されるシーンがある※。
当日は生憎の雨模様から“ウッドストック”さながらに「大変だった。泥だらけになっちゃって」(大野)というが、そんな光景が、まさにこのフィルムには収められている。
惜しいことに、大野の登場シーンでは音声は別人(出演者のひとりだったジュニ・ラッシュの歌声のように聴こえる)の歌が被さっているようだが、この当時の大野はニール・ヤングのナンバーをよく歌っていたという。
そんな流れがあってか、のちにガロの結成直後のライヴでも「ヘルプレス」、「テル・ミー・ホワイ」、「オン・ザ・ウェイ・ホーム」などのヤングの曲は、大野が歌うことで定番となって行く。
■「ラレーニア」がもたらしたもの
一方で堀内や日高はどうだったのか。
日高の方はといえば、当時はやはり、ミルクにいたり、いなかったりという時期であり、傍ら、堀内との交流も続けていたようだ。
仕事とは別に、銀座や六本木・麻布あたりにふたりで誘い合い、繰り出すようなこともしばしばあったらしい。
そんな日々の中で、堀内も“次”へと道を模索しはじめていた。
具体的な日時が不明だが、『ヘアー』が終了した後、堀内は単独でいくつかの演奏活動を行ったことがあるのだという。
いわば、幻のソロ活動である。
中でも彼自身もよく回顧していたのは、日比谷野音での演奏の記憶だ。当時、同会場でよく開催されるようになっていたという、邦人ロック・アーティストを集めてのオムニバス・コンサート・イヴェントのひとつに、この頃、堀内も出演したことがあったのである。
これは『ヘアー』日本公演の演奏メンバーのひとりであり、当時交流のあったギタリストの水谷公生のグループにフィーチャーされた形での出演だったらしい。堀内にとってはこれがおそらくエンジェルス脱退以来初の、表立った音楽活動だったはずだ。
曰く、この野音のステージでは当時の堀内が特に好んでいたというドノヴァンの「ラレーニア」を、水谷グループのニューロックな演奏――ディープ・パープルのカヴァー・ヴァージョン※をもとにしたものだったようだ――をバックに歌ったのだという。
「ラレーニア」は、イギリスのフォーク・ロックの旗手、ドノヴァンが68年10月に発表した、ファンタジックなアコースティック・バラード作品だ。
日本では70年前後、やはりドノヴァン好きで知られた加藤和彦のレパートリーとしても知られ、後期タイガースのステージでは岸部シローも好んで取り上げていた曲※だったが、後年、堀内自身も幾たびも語っていたように、彼にとっては、このドノヴァンとの出会いも、CS&N同様に大きなものだったという。
堀内がどんな具合にこの曲を知り、惹かれたのか。仔細については残念ながら掴めていない。
ただ、なにかきっかけがあったのか、それとも自然な同時発生的なものだったのか。当時、日本のミュージシャンでこの曲を愛好する者はどういうわけか、案外多かったようだ。
当時を想い出して、大野がこんなエピソードを語ってくれた。
「――『ヘアー』のあと、たしか忠(小坂忠)とおれと、マークの家に遊びに行ったことがあって」
レコード談義から、目下のお互いの好きな曲の話になり、こんなやりとりがあったという。
「その時に、忠がこの「ラレーニア」が好きだ、って言ったのね。そうしたらマークも、自分もすごい「ラレーニア」好きなんだよね、と。
おれはそのとき、アル・クーパーにちょっとハマってた時期があって、「Hey, Western Union Man」※がいいんだよね、という話をしたんだけど、ふたりは「ラレーニア」だろ、やっぱり!、みたいな感じに盛り上がってたのを憶えてる。だから、忠もマークも、この曲はすごい好きだった」(大野。2023年)
小坂、堀内との“幻のグループ”構想があったように、大野は堀内の歌に『ヘアー』のときから側で触れていたひとりだ。
そんな大野は、堀内の歌唱スタイルに、この頃を境として、ある変化が起きたのを、どうやら感じたらしい。
それは声を闇雲に張り上げるのではない、穏やかな、地に着いた歌い方である。
大野は、堀内がガロ以降のイメージに繋がる“その歌い方”に気付くきっかけとなったのが、この時期に「ラレーニア」と出会い、自らのレパートリーとする中で、自家薬籠中のものとしたことだったのではないか、と考えているという。
「――ああいう低い声で歌う」、「あれをマークがモノにしたっていうのは、デカかったと思うよ」(大野。2023年)。
大野の推察を証するかのように、堀内はその「ラレーニア」を、ガロ時代、そしてソロ以降に至るまで、自らの重要なルーツであることを都度確かめるかのように、レパートリーとして歌い継いで行った。
その出発点が、たぶんこの時期、野音での水谷グループとの共演などでのソロ活動にあったのである。
そして、歌唱だけでなく、いや、あるいはそれ以上に――「ラレーニア」という曲の持つ幻想的な世界観は、これも堀内自身が認めていたように、やがて自らの曲を作り始める堀内の創作面において、強く影響を与えて行くことにもなる。
大野は、ガロが後年TVKで放送されていたテレビ番組に出演した際、堀内がソロで歌った「ラレーニア」が素晴らしかった、とも付け加えた。「あれ、すっごくいいんだよね。とってもいい」。
■飯倉《ジョワ》での日々
そしておそらくはこの野音などでのパフォーマンスに続く形で、堀内は今度は日高を誘い、六本木・飯倉近辺にあったという《ジョワ》という小さな飲食店でふた月ほど、弾き語りのデュオ活動を行うようになる。
この演奏を何度か聴きに行ったことがあるという大野の記憶によれば、季節は初夏――、おそらく6月あたりのことだったという。
堀内と日高がこのデュオ活動を始めた頃、ふたりには世話人的な役割を果たしてくれていた、ある人物がいた。
加橋かつみがかつて在籍していたタイガースの元マネージャーであった、渡辺プロダクションの中井國二である。
どうやらこの頃、業界内では『ヘアー』キャストから次世代の新たな才能を見出し、これをデビューさせよう、というような空気があったらしい。大野の記憶によれば、そんな中で、まず堀内の存在に中井が目を留めていた、のだという※。
《ジョワ》の仕事も、一説によれば中井からの“武者修行”のお達しを含んでの紹介だったそうである。
そして、そんな中井も、CS&Nのサウンドに新しさを感じていた、というひとりだった(『失速』掲載インタビューでの中井による発言)。
飯倉の交差点から麻布通りを溜池方面にしばし歩いたあたり――、スウェーデン大使館や、有名な《ニコラスピザハウス》の本店(2018年3月閉店)にも程近いエリアに存在したという、この《ジョワ》については、資料も情報も乏しく、関係者の記憶も朧気だ。
地域資料にも少しあたってみたが、図版や確証が持てるだけの情報は現在のところ見つけられておらず、具体的にどんな店だったのかの仔細は表現しにくい。
ただ、大野の記憶では間口は狭めの場所だったといい、また、堀内によればそれはスナックのような店だった、ともいう※。
堀内・日高の演奏は、たしかまだ陽が残る夕暮れ頃から始まった、と大野は回想する。
ふたりがここで歌っていたというのは、たとえば年齢層が高めだったというこの店の常連客にも受けそうな「いそしぎ(シャドウ・オブ・ユア・スマイル)」(日高が歌ったという)、「想い出のサンフランシスコ(霧のサンフランシスコ)」(こちらは堀内)のような、ジャジーなスタンダード曲。
あるいは、やはり当時、ポピュラーな存在だったサイモン&ガーファンクル(「スカボロー・フェア」のほか、「いとしのセシリア」を日高メイン、「コンドルは飛んで行く」を堀内メインで)や、ビートルズ・ナンバー、さらに日高がミルクでも得意とした、レターメンの曲。
そして CS&N、ポコ「初めての恋(First Love)」(堀内)のように目下の自分たちが試したかったであろう曲まで、洋楽曲を色々やっていたという。
大野は、ふたりが歌うビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」を、ここで聴いたような記憶があるとも話す。堀内曰く、上手くやれば、上機嫌の客から“おひねり”を戴くこともあった。
上記のレパートリーはもちろん、小さな店での弾き語り、ということも考慮しての選曲でもあっただろうし、日高の弁では、使うギターはアコースティックの場合もあれば、エレクトリックの場合もあったともいう※。
だが、そのカヴァー曲から、堀内や日高の関心が“アコースティックなサウンド”に及び出していたことがはっきり窺えるのも、この頃だ。
■アコースティック・サウンドへの関心
このあたりのふたりの細かな心情、あるいは彼らがそれ以前のアコースティック系の音楽、たとえばモダン・フォークなどをどう捉えていたのかについては、掴み切れていない。
洋楽フォークへの言及は、かろうじて日高がインタビューでのギター談義の際、ジョーン・バエズの初来日(1967年)時、彼女が持っていたギター(マーティン00-45)をなにかで見たらしく、印象に残っていた、というような意味合いのことを述べていたことが見つけられるくらいだった。
アコースティックを入手した時期に関しても、日高については自身が初めて自前の(ガット・ギターではない、スティール弦の)アコースティックを手にしたのは意外なことにガロ結成後の71年になってから購入したマーティンD-28が第1号であり、それまでは堀内や大野の持つ国産のギター※を借用していた、と述べていて(『ライトミュージック』75年9月増刊など)、その変遷はゆったりとしたものであった様子も伺える。
また、日高はCS&Nに出会う以前の自身のアコースティック・ギターに関する関心については、堀内も自身もエレクトリックで育っているということを強調しつつ、<生ギターといったら、ビートルズの『ア・ハード・デイズ・ナイト』のなかで、『アンド・アイ・ラブ・ハー』うたったりとか>という程度にしか知らなかった、と語っていたこともあった(『失速』)。
そんな日高はガロでのデビュー当時、好きな“ニュー・フォーク”系のアーティストという括りとして、以下のような面々を誌面で紹介していたことがある(『ヤング・ギター』71年増刊)。
たとえば、CS&Nを別格とすれば、ほかにはジェイムス・テイラー、キャロル・キング、バッファロー・スプリングフィールド、バーズ(初期)、ジョニ・ミッチェル、ローラ・ニーロ、ジョン・セバスチャン、などである。
“ニュー・フォーク”とは当時、それまでのモダン・フォークなどとの差別化からか、新世代のアコースティック寄りの自作自演歌手などに対してレコード会社などがよくキャッチ・フレーズで用いていた言葉だが、ここで日高が“ニュー・フォーク”として挙げているアーティストの多くは、言い換えれば、のちに“シンガー・ソングライター”として一括りにされるような系統のものだ。
日高自身は<ボクにとって音楽は、ニュー・フォークだろうが、ハード・ロックだろうが、どんな名前がついていても、かまわないのです>と前置きをしており、“ニュー・フォーク”というのは積極性を持ってというより、編集部からのお題に沿って使用した言葉だったのかもしれないが、彼がこの頃どんな志向を持って、その系統のレコードを聴いていたのかがわかるセレクションではないかと思う。
大野もやはりガロでのデビュー当時、『ライトミュージック』誌に寄せたエッセイのなかでは、CS&Nとビートルズを別格としつつ、ニルソン、ジェイムス・テイラー、エルトン・ジョンなどをよく聴くレコードとして挙げていたことがあった。
寡聞にして堀内の当時の意見は見つけられていない。そのため、確言するのは早計かもしれないが、つまり、のちのガロのメンバーはこの頃、ロック・ジェネレーションによる“新しい歌の形”=つまり、“シンガー・ソングライター”的な意識や、そして新しい時代のアコースティック・サウンドの到来を、こうしたレコードから嗅ぎ取り、惹かれだしていた――、ということだったのではなかったのだろうか。
もちろん、CS&Nは大きな刺激だっただろう。CS&Nもまた、それぞれが対等の立場にある個性際立つシンガー・ソングライターの集合体でもあった。
加えて、日高が言っていたように、CS&Nの奏でるギターの響きが、それまでのアコースティックの概念を覆すようなものであったことも、刺激となっていたかもしれない。
あるいは、ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス、マウンテン(堀内が好きだったという)のような、エレクトリックのいわゆる“ロック・バンド”だけでなく、リッチー・ヘヴンス、CS&N、アーロ・ガスリー、ジョン・セバスチャン、ジョーン・バエズといったアコースティック勢もが共存していた《ウッドストック》の自由な在り様にも、心に感じるものがあったのかもしれない。
事実、大野は近年の発言では、それを首肯しているし、最も“ロック派”と見なされがちな日高でさえも、デビュー当時にはフォークそのものを全否定するような発言はしていなかった。むしろ双方の足りない部分を補う“歩み寄り”を願う発言さえ残していたことは――、詳細は別の機会に譲るとして、ここにもひとまず書き記しておきたい。
■“次”への胎動
ともあれ、《ジョワ》で歌い出した堀内と日高の、その声の相性は良かった。
じつは、彼ら自身がそれに気づいたのは、かつて『ヘアー』のオーディション参加への準備をしている時だった。課題曲として提示されていたという「グッド・モーニング・スターシャイン」をふたりでなんとなく合わせてみたところ、信じられないほどのハーモニーが生まれたのだ。
ふたりの歌は、澄んだハイトーンが出せるようになっていた堀内と、少しハスキーがかった日高と、多少の個性の違いはあったが、ともに甘く優しい声質という共通点があった。
とりわけ、この《ジョワ》での活動期にふたりの十八番だったのは、アイビーズ(のちにバッドフィンガーへ発展する)の「メイビー・トゥモロウ」という曲だった。
メロディアスでデュオ・ハーモニー向きのこの曲は、もともと日高がミルクでもとりあげていたお気に入りの一曲だったが、堀内の弁によれば、堀内・日高のデュオによるそれは「まるで自分たちのための曲のように息がぴったりで、本当によく歌った」ものだった、という。
また、これは大野の方はどうも記憶がない様子でもあるのだが、堀内が話す限りでは、じつはこの頃、すでにふたりは大野を交えて軽くハモってみたこともあった――、のだともいう。
当時の大野はそのニックネーム通りの存在感ある歌声を注目され、内田裕也などからはソロ・シンガーでデビューしてみないか、と声をかけられたこともあった時期だったという。
大野の歌声は、たとえば幼い頃にジーン・ヴィンセントに衝撃を受けたということ、あるいはダウンハーツ時代にはエリック・バードン(アニマルズ)の歌にあこがれていた、というエピソードも頷ける、独特のビターな質感のあるものだった。
後年の発言を見聞きしても、のちのガロの 3 人にとって当時 CS&N の音楽は、やはりアコースティックであってもロックな意思を宿したもの、と、受け止められていたように感じられる。ガロが目指したものも、当初はそこ、だったはずだ。
前述したように、堀内と日高の歌声は、大野とは対照的に、(若干のハスキーさはあったものの)、スウィートで、繊細な感触のものだった。それだけに、大野のビターな声質は、この頃の堀内や日高に、自分たちとはまた異なった、押しのある、ロック的なエッセンスを持った魅力的なものと、内心、感じさせていたのではないだろうか。
実際、伝聞ではあるが、特に日高は早くから大野の声質を買っていた、という話も耳にしたことがある。自身にはない、その声質に羨望があったというのである。
一見、まったく異質なように思えたこの 3 人の声のぶつかり合い。それはこの後、マジックを起こしてゆくわけだが――。
*
ここまでに振り返ってきた『ヘアー』公演中から、終了直後の春から夏という時期。それは、いずれにしてものちのガロの 3 人にとっては、手探りの期間だったのかもしれない。
だが、ひとつ感じるのは、当時の彼らの中に“変わるものと、変わらないもの”――、そんな目に見えない何かが、知らず交差する瞬間があったのではないか、ということである。
時代の新たな潮流にあこがれ、『ヘアー』に飛び込み、CS&Nのサウンドにのめり込んだように、“それまでと異なる何か”を彼らが渇望していたのは事実かもしれない。
しかし一方で、彼らが好んだ楽曲を追ってみると、一貫して“メロディアスで、洗練された感覚”がその根底には共通していたようにも思える。
メッセージ性のみに傾いた音楽や、あるいは前後に台頭していたギター・ソロが幅を効かすようなロック、ましてインプロヴィゼーション主体の音楽は、彼らの好みからは、見えてこない。
時代は移り変わり、その中で多様なサウンドに惹かれ、新しさを求めながらも、しかし“歌(メロディー)”ありきの楽曲――が、常に彼らに影響を与えた音楽だったように、思えるのである。
そして、もうひとつ、感じられるのは、やはり日本版『ヘアー』への関与が、その後の堀内、大野、そして日高へと及ぼした影響の大きさだ。
日本版『ヘアー』というミュージカルは、たしかに公演自体は中途で終わってしまった。
しかし、この時期に彼らにとって、『ヘアー』を触媒とした“出会い”や“交流”が、どれだけ多く、また、濃いものだったか。その一端は、ここまでに挙げたエピソードからも、伝わってくるのではないだろうか。
堀内、日高、大野の 3人は、『ヘアー』という“磁場”へ関わったことにより、移り変わる時代の空気を体感し、CS&N という新たな音楽とも出会い――、そして、それに留まらず、こうして様々な人々との繋がりという、“財産”をも得ていた。
そしてそれは、じつはこののちの彼らにとって、運命を左右するほどの、深い意味合いを持ってくることになるのである。
※以下第10回へ続く→第10回を見る
(文中敬称略)
Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus
主要参考文献:※最終回文末に記載。
主要参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など
(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿)
©POPTRAKS! magazine / 高木龍太
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