敬意とは、わかることばを使うこと
父が59歳のとき若年性アルツハイマー型認知症と診断された。仕事中のミスが増え、定年を待たずに早期退職してからわかったことだった。
最初の5、6年。切符が買えなくなったり、辻褄の合わない言動が増えたりしたものの、なんとか日常生活が送れていた。料理をぐちゃぐちゃに混ぜっ返しながらも「おいしいな」と笑っていた。
しかし、その後徘徊が始まり、トイレで排泄ができなくなり、会話がほとんど成り立たなくなっていった。ものすごいスピードで人格を失っていくように思えた。
家族だけでの介護が限界に来る前にとデイサービスを利用していた。朝9時ごろ車で迎えにきてもらい、15時ごろまでお世話になる。スタッフは明るくエネルギッシュな方ばかりで、顔を見ると励まされる思いがした。
この頃の父は、自発的な発話がほとんどなく、わたしのことばが理解できているのかどうかもわからない状態だった。だから、迎えの時間に合わせて玄関に連れだすのも一苦労で、どうやっても行かないこともあったし、その10分後に再度迎えにきてもらうとすっと出かけられることもあった。
その日は、玄関先までは出られたものの、そこから動こうとしなかった。少し年配の物腰柔らかな女性スタッフが一生懸命話しかけてくれる。
「〇〇さん、今日はいい天気ですよ。こんな日に車でドライブをしたら清々しいですよ、今日は暖かいですしね。〇〇さんは車がお好きですよね?よく乗られてたんですよね。今日は特別に△△△(車種)で来させてもらってるんですよ、乗りに行きましょう!」
このような感じのことを、丁寧な言葉づかいで言ってくれていた。しかし、父の顔は硬直したまま、ことばが耳に入っているのかどうかもわからない。すると、もう一人のおそらくベテランの男性スタッフが、こう言った。
「車、行こう!」
大きな声で、明確な発音で。
すると父の顔がぱっと変わり、「いこ、いこ」と言って歩き出したのだ。
届いたんだ。
そう思った。男性スタッフのたった二語が父に届き、刺激を与え、父を動かした。父はことばを理解し、自分の意志で「行く」ことを決めたのだ。
女性のことばはとても丁寧で愛情があるものだった。父の興味をひきそうな話題を、敬意を表したことばで語ってくれた。
でも、このときの父にはそれを理解する力はなかったのだ。父にはどのように聞こえていたのだろう。音楽のように?それとも意味不明な呪文のように?
もしかすると、外国語を学ぶわたしたちや、日本語を学ぶ外国人も同じなのかもしれない(わたしは日本語教師をしている)。
バスやあらゆる施設で外国人客にていねいに説明をするスタッフを見ることがある。日本語が少し話せる外国人もいるだろうから、そんなときは日本語でいいと思う。
でも、それが丁寧すぎる日本語だったり一文が長すぎたりする場合、理解できる人はぐっと減ってしまう。
「お客さん、どちらから乗られましたか、あ、一日券をお持ちでしたら、ここに通していただいて、次からは見せていただくだけで結構ですので」
そんなに難しくないが、スピードや発音によっては聞き取れないこともある。外国語でペラペラっと話されると怖気づいてしまうこともある。
「お客さん、どこから乗りましたか。あ、一日券はここに入れてください」
このようにするだけで、きっと理解できる人が増える。伝えたいことは、「一日券をここに入れること」。次のことは次のときでいいのではないか。情報が多いこと・丁寧なこと=サービスではない。
大切なのは、相手に伝わることばで伝えること。
長い文は短く、専門用語は一般用語に。過剰な敬語は思いきってニュートラルに。
誤解してほしくないのだが、なんでも「簡単に」すればいいと思っているわけではない。専門用語が必要な場では使わねばならないし、敬語は日本文化の一つだと思っている。語彙が豊富なのも日本語の特徴だ。
ただ、それが相手や場面によって、より自在に操れるようになることが本当の日本語の使い手なのではないかと思うのだ。
ことばが伝えるツールなのだとしたら、やっぱりできるだけ伝わってほしい。ならば、自分の中でことばを探すだけではなく、相手に思いを寄せて想像することが大切なのではないかと思う。
「車、行こう!」
この二語がきちんと伝わった。伝わらない、わからなければ、どんなにすばらしく丁寧なことばであっても、その意味はほとんどない。
多様な人が共生する社会でのことばの在り方、これを考えさせられた出来事だった。