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フィルターが伝達の邪魔をする

わたしは日本語を学ぶ外国人に日本語を教えている。文法や会話や読解の授業を行い、その教育効果をはかるために、ライティングテスト、オーラルテスト、リスニングテストなどをする。

オーラルテストには、一問一答形式やあるトピックについての説明や意見を述べるものなどがあって、文法の正確性や語彙の適切性、音声やなめらかさ、談話の構成力などさまざまな観点からジャッジする。

もちろん、話の内容もジャッジの対象だ。学習者が何を思い、何を語りたいのか。それらを日本語を用いてどれだけ表現できるのか。それを聞くための「話す」テストなのだから。

でも、どういうわけかジャッジを意識すると、肝心の内容が頭に入ってこなくなることがある。

学習者は自分について語ったり、社会問題について意見したり、日本の現状に対して提言したりするのだが、どんなに素晴らしいことを言っていても、なにか頭上を上滑りするような、心から感じ入れないような、そんな感覚に陥ることがある。

テストでないとき、例えばクラスで短いスピーチをするときも、わたしはフィードバックのためにアンテナを張る。発音やイントネーション、ことばの選択や文のねじれ。どう修正すればより適切な日本語になるかを考えながらスピーチを聞く。

スピーチ後の質疑応答のとき、聞き手のクラスメートから繰り出される、内容をきちんとくみ取った質問にハッとさせられることがある。

「あ、さっきのアレはそういう意味だったのか」
と気づかされるのだ。発音もわかりにくかったし文がねじれていた。そのため、何を言いたいのかがわかりにくかった。けれども、クラスメートはきちんと話し手の発話意図を理解し、その上でその内容に対する前向きな質問をする。

わたしは正確性とか適切性というフィルターで、大切なことを取りこぼしたことに気づく。話し手が何を思い、何を語りたいのか。
それを誠実に聞き取ろうとする気持ち。相手を敬って耳を傾ける気持ち。

聞き手のクラスメートにはそれがあったのだと思う。何を話すんだろう、聞いてみたい!という純粋な気持ち。あちらこちらにミスがあっても、発音が聞き取りにくくても。

それは、人の話を聞くうえで、きちんと理解するうえで、最も大切なことなんじゃないかと思う。


このフィルターは、決して特別なものではなくきっとどこにでも存在する。
ことば尻を捉えて、ことば遊びのように行われる解釈。
一部の文脈のみを捉えた都合のいい解釈。
ことばの言い間違いや、勘違いへの過度な反応。
わかりやすいかわかりにくいかで物事をふるい分ける態度。

メディアやSNSで続々と情報が発信される今、その情報をどう捉えるかは受取手の姿勢によるところもきっと大きい。

もちろん、ことばは正確であったほうがいいし、豊富に使い分けられるほうがいい。話は論拠や例示があって、論理的であった方がいい。だから、話し手や発信者はできるだけ相手に伝わるように、わかりやすくなるように、心を砕いて発信する。

でも、それでも功を奏さなかった場合。話し手の意図が十分に表現されなかった場合には、聞き手の聞く姿勢や寛容な態度が、伝達を大いに手助けするのではないかと思う。


日本語の正確性や適切性をはかって、それをもとに修正していくことは、わたしがやるべきことだしもちろん続けていく。

ただ、それがすべてではないこと。正しい日本語でなければ伝わらないわけではないこと。拙いことばの中にも思いがけないアイデアや意見や視点が隠れていることがあること。

フィルターは時に伝達の邪魔をする。心に留めておきたいと思う。

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