パーティーのプライオリティ
まだ駆け出しの日本語教師だったころ、ゼロ初級のクラスを担当した。ゼロ初級というのは、学習者がこれまでに日本語を学んだ経験がなく、「あ、い、う、え、お」の発音から、まさにゼロから学ぶクラスだ。
国籍は多彩で、アジアやヨーロッパや南米。20代のエネルギッシュな学習者がほとんどを占める中、ブラジルから仕事で来日した一人の男性がいた。その男性は周りの学習者から見れば父親ぐらいの年齢で、午前中は日本語学校で日本語を学び、午後は仕事という生活を送っていた。
彼の日本語学習は、最初から順調にはいかなかった。
まず、文字(ひらがな)を覚えることにつまづき、聞いた音を真似して発音することもスムーズにはいかなかった。
一つ一つの発話もゆっくりで、ことばを覚えるのにも時間がかかった。
でも、学習に取り組む姿勢はすこぶる真摯だった。その上、持ち前の人懐っこいキャラクターで、覚えた数少ない日本語でジョークを飛ばし、クラスメートを笑わせる。そんなコミュニケーション能力を備えた紳士だった。
そんな彼が、テストを翌週に控えた週末、神妙な顔でやってきた。
「勉強の時間がありません。」
学習目的で来日した留学生ではないので、学習時間が確保できないことは容易に想像できた。慣れない環境での生活に仕事。学習効果を測るテストは重要だけれど、あまりに負担をかけるのは心苦しい気がした。
「そうですね。週末は何をしますか。仕事ですか。」
わたしが聞くと、彼は答えた。
「パーティーです。」
「パ、パーティー?!」
わたしは、思わず聞き返した。
彼はいたって真面目な顔で、わたしの目をまっすぐに見据え、ゆっくりとした口調で、
「土曜日も、日曜日も、パーティーです。」
なんでも一つは彼主催のホームパーティー、もう一つは友人のパーティーなんだそうだ。そして、それは何よりも優先されるべきものらしい。
彼がここで生きていくために必要だと思われる仕事よりも、それに必要な日本語のテストよりも。
その当時、世の中は就職氷河期真っ只中で、希望の職業に就ける人は一握りだった。わたしは運よく希望の職に就けたが、右も左もわからない未熟な自分を少しでも成長させなければならないと、睡眠時間を削り、一日の大半を仕事に充てる生活をしていた。
そんな中での彼のことばは衝撃だった。
正直、それじゃあ日本語うまくならないよ、とも思ったし、呆れた気持ちにもなった。「やりたいこと」よりも「やるべきこと」を優先させることが常になっていたわたしには、甘えのようにも思えた。でも、ラテン系の人の考え方ってこうなのね、とステレオタイプに当てはめて、なんとなく納得した気になっていた。
平成から令和にかわった今、彼のことばに心から賛同する自分がいる。
自分の心の声を聴く。そしてそれを表明して、実行する。彼がやっていたことは、実にシンプルなことだ。
仕事もするし日本語の勉強もする。けれども友人とのパーティーはそれ以上に大切なこと。友人との会話が何よりも自分を幸せにしてくれることなのだから。彼には、自分の軸がしっかりと定まっていた。実際、パーティーを我慢してテストでちょっといい点数が取れたとしても、いったい何の役に立つのだろう?
自分が幸せかどうかを基準にする。
わたしはそれを自分の軸にすることが苦手だったし、今でもそのきらいはある。周囲や職場、社会のモノサシで測られることに慣れすぎてしまっているのだろう。
本当は自分で選べる自由な選択があるはずなのに、勝手に縛られて不自由になっていた。
今、学習者には日本語の勉強以外でやりたいことを、どんどんやるようにすすめている。というより、言わなくてもたいていそうしている(ように見える)。やりたいこと、自分の軸が定まっている人は、そこから興味や関心、交流が広がり、その中で日本語を使えば必然的にうまくなる。
あの当時は衝撃だったことが、今は当たり前のことになっている。読んでくださった方の中には、わたしの感覚の方がびっくりだという方もいるだろう。
人の考え、普通や常識ってこんなに変わるんだな、と思った出来事。