私たちが全力でかぶいている姿を観に来てください #条件の演劇祭
確かに歌舞伎は現代人がアクセスするには多少の距離感があるジャンルの舞台芸術であると言えます。
というか、今日では舞台という表現形態全体が、距離のあるコンテンツになってしまっている、ということに私は個人的に危機感を覚えており、どうにかして距離を縮めたいと考えているのです。
ですから、私は演劇のことを「芸術」、「アート」として考えないようにしようと決めました。大衆的なものと、そうでないものを区別する際に、「エンタメ」であるかそうでないか、という言いかたをされることがありますが、それはかなり雑な分類のしかたであると、私は感じます。
つまり、娯楽であったとしても、重たいテーマを扱うものはあるし、もちろん軽薄なものもあるわけです。
歌舞伎とは、もともとは大衆の娯楽でした。しかし、その表現形式が誕生してから、時間が経過するとともに、伝統芸能としての地位を高めていきました。それは、歌舞伎自体が生き残るために選んだ道である。
思えば、かつて娯楽だったものは、時間が経つにつれてクラシックなものになっていくか、もしくは時代遅れのものとして大衆の記憶から抹消されていくか、という顛末しかないのです。当時新しかったものが、ずっと新しくあり続けるというのは無理なことなのです。
ですから、その表現をし続けようとする人たちは、生き残りを懸けて、自分たちの表現形式を様式化しようとするのです。
様式化された表現には、当然ながらその様式自体に「美」の観念が付随していきます。それが「様式美」となって、伝統化していくのです。
伝統的なものを面白いと感じるためには、その伝統的な文脈を理解していなくてはなりません。そうでなければ様式美を美として感じられない、というわけです。
私はこの演劇祭(条件の演劇祭 vol. 1 - Kabuki)で、作品をつくらせていただくことが決まってから、初めて作り手として真剣に歌舞伎を拝見しました。
門外漢の私は様式についてを知らぬまま歌舞伎を観たのですが、はっきり言ってとても面白くて驚いたのをよく憶えています。
こんなに面白いものに、どうして自分はこれまで触れてこなかったのだろう……逆に、今触れる機会を頂戴することができて、ほんとうによかった、と思いました。
ですから、私はこの演劇祭の主催者であるZRさんにとても感謝しているのです。
歌舞伎の翻案のしかたに迷っていた際に、「めちゃくちゃやってください」と声が掛かって、私はいっさい力まずにこの作品を書きあげて演出することができました。
『太陽と鉄と毛抜』がこのようなテイストの作品になったのはZRさんがいたからこそなんですね。
つまるところ、この演劇祭は、ZRさんのイズムとパッションから成り立っているわけだし、ZRさんは自身のイズムとパッションをあますことなくパンフレットやSNSに書き連ねていると、私は少なくとも思っています。
それでも、この演劇祭の趣旨を感じ取ることができない人がいるのはしかたのないことだと思います。だって、むしろ、みんながみんな、かれのイズムとパッションについて理解することができる人たちばかりであったら、それはそれでひじょうにおそろしいことじゃないですか。
そして、人はかならず誤読をするし、そもそも完璧な読解なんてものは不可能なのですから。
演劇祭で上演されている4つの作品はすべてZRさんのイズムとパッションの影響下にある作品であると思っています。私たちは、歌舞伎との距離感を各々が醸成していくために、さまざまな催しを実施してきたのですから。
そして、そこにはかならずZRさんがいらっしゃって、かれが、かれの言葉で喋っているのを私たちは聞いていました。
もしかすると、今回の作品群を観て、「これは全然歌舞伎とは違うじゃないか!」とお感じになる方もいらっしゃるかもしれません。私はそのことを否定しませんし、肯定することもありません。ひとつの意見として、ありがたく頂戴し、また次の作品をつくる際の教訓とするかもしれません。
とにかく、私が伝えたいことはたったひとつです。
私たちが全力でかぶいている姿を観に来てください。