『斗起夫』という終わらない物語を、一緒に劇場でつくりましょう
前作『怒る人の気概』の稽古場に引き続き、俳優にエッセイを書いてもらうことにしました。
エッセイというと、日本では、「作家が私生活のあれこれについて書いているもの」という印象を受けるかもしれませんが、もともとは「試論」的な意味合いを持つ言葉でした。つまり、考えていることをあまり肩肘張らずに書いていく、ということです。
スポーツでも、準備運動をしないで、いきなり本気で体を動かそうとしてもパフォーマンスは上がりません。最悪の場合は怪我をしてしまうかもしれません。
エッセイ=試論にはスポーツにおける準備運動的な役割があると私は考えます。
作家は、自分が経験したことしか書くことができません。もっと精確に言えば、経験と想像の組み合わせによって物語は創造されます。
ちなみに、経験は想像によって促進され、想像は経験によって育まれます。だから、どっちが先というわけでもないのです。
経験と想像が同時多発的に発生するとき、脳内はひじょうにカオスな状態になっているでしょう。
そんなカオスな状態を整理するために、人は日記を書いたり、ツイートしたりするのだと思います。ちょうどエッセイ=試論を書くみたいな感じで。肩肘張らないで、準備運動的に書いていく。
『斗起夫』の稽古場では、シーン稽古の最初に、そのシーンに登場する俳優に、
① 自分の演じる役はどんな人物なのか?
② このシーンを最終的にどんなシーンとして完成させたいか?
を話し合っていただいてから、実際の練習に進んでいくようにしています。
俳優にエッセイを書いてもらうことによって、話し合いがちゃんと有機的に実際の練習につながっていっているような感じを受けます。
私は、思いつきで喋ることを否定しないし、思いつきで喋るからこそ、アイデアみたいなものが突発的に生まれることがある、とも思います。
けれど、同時に、事前に整理された思考で話し合いに臨むことも必要だと思っています。
そこらへんのあんばいはひじょうに難しく、私も日頃失敗を繰り返しては学び……という感じなんですけど、たぶんもっとも大切なのは、自論でゴリゴリに固めないで相手の意見が入ってくる余地を残しておくこと。自論を話し通すことではなくて、相手の意見とシナジーさせるのを目標にすることなんだと思います。
そして、逆説的かもしれませんが、シナジーを起こすためには、自論がきちんと確立されていなくてはなりません。
そういったことからも、稽古に際してエッセイを事前に書いておく、というのはひじょうに重要なことなんだと私は思います。
第1回目のエッセイを書いてくれたのは、ぺぺぺの会会員の新堀隼弥でした。
私は、彼の感性がとても好きで、彼の感性に触れるたびに、彼とチームメイトとして、ともに創作ができる人生で本当によかったと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。