美術鑑賞と解釈
週末の休息。喫茶店で新しい本を何冊も手にとり、それらを読みながら一日中コーヒーを飲んだ。画集にも目を通した。優れたパステル画だった。美術館で絵を観ていると、作品の横にあるキャプションをうとましく思うと同時に、ありがたくも思う。画集はいくらページをめくっても、めくっても、絵が連打されるだけで文字での説明はなくって、自分だけでその絵を解釈するしかない。いや、絵を解釈して見ようとしている時点で美術鑑賞の方法をだいぶ狭めてしまっていることにならないか。
もちろん解釈することも鑑賞方法のひとつではあるのだけど、解釈することだけが鑑賞ではないだろう。
目の前の作品を、美術史的な位置づけで語れると博識であるふうに見えるし、なんとなく、「自分はきちんと美術鑑賞ができている」と安心感も得られる。
けれどもその安心感はただの安心感に過ぎないのではないか。美術史的な位置づけで作品を語ろうとするときに、語られるのはコンテクストのみであり、作品自体についてをちゃんと語れているかどうか、という点にもっと着目すべきだと思う。
べつにコンテクストを軽視しているわけではない。というよりも、僕は、たぶんコンテクストを重要視している。ここで伝えようとしていることは、わりと当たり前なことだ。当たり前であるがゆえに難しく、当たり前であるがゆえに忘れがちになること。その作品を単体で評価しながらも、コンテクストで分析し、その作品が全体のなかでどのような位置に立っているのかを捉えること。そのどちらから始めてみてもいい。
どちらか一方に偏ってしまわないで作品を鑑賞してみると、あなただけの視点で、美術を語れるようになるかもしれない。そうなると、美術鑑賞はいっそう愉しいものになる。
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