物事を記述するにあたって;小説家と戯作者の違い
上田岳弘『ニムロッド』を読み終えて、次はなにを読もうかと考えていた。このまま、芥川受賞作を読んでみるのもいいかなと思ったのだが、『ニムロッド』の前も、その前も、ずっと現代小説ばかりを読んでいた(石川淳の「深夜の戀人」を除いては)ので、少し時代を遡ったものを読んでみたいと思って手にとったのが志賀直哉だった。
『暗夜行路』はたぶん2019年くらいから本棚にある。読みたいと思って書店で購入したのだが、なかなか読むきっかけをつかめなかった。その年の終わりには、僕は『暗夜行路』をモチーフにして詩を一編書いた。読んでもいないし、あらすじも知らない。なのに、それをモチーフに自分の作品をつくった。
志賀直哉は日本の近代文学を代表する作家である。志賀の作品は情熱的かつ人間の心情を深く探求するものが多いと評されることが多いが——まだ読み始めたばかりではあるが——よくわかる。例えば、次の一文。
これは、阪口の小説を読んだ竜岡が、阪口を前にして言うセリフの一部なのだが、なんというか、こんなにまっすぐな言葉があるだろうかと僕はひどく感心してしまった(改行は引用者)。
なかでも、『暗夜行路』はとくに、日本の文学会で重要な地位を占める作品と言われている。この作品では志賀自身の哲学や人生観が色濃く反映されているからだ。いや、小説を書くにあたって、作家が、作家自身の哲学や人生観を反映させないことのほうが難しい、というかそれはほとんど不可能だろう。または、可能だとして、そのような小説が面白いのか、と訊かれればきっと面白くない——味噌汁の上澄みをずっと飲んでいるみたいな文章ができあがるだろう。
戯曲であればそれも可能であるかもしれない。小説家とは違って、戯作者には自身の哲学や人生観はあまり必要がないように思う。むしろ戯作者にとってはそれが邪魔になったりすることもある。戯作者に求められるのは優秀な観察者であること、だと思う。
僕が、戯曲をいきなり書くことができづらく、いったん小説をしたためてから戯曲に変換する、というプロセスを踏んでいるのには、おそらく、こういうわけがあるのだ。
僕は、物事を記述するにあたって、自身の哲学や人生観を発動機にしている。しかし、戯曲ではそれが邪魔になるので、変換の過程で抜き取っているのだ。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。