日本画家 吉岡堅二(1)
吉岡堅二さんをご存知ない方でも、東京在住もしくは何度かいらしている方なら、この絵をご存知だと思います。
JR新橋駅の、地上ホームと地下ホームの連絡口です。
ノートルダム大聖堂の『バラ窓』から着想を得たことから『くじゃく窓』と命名されました。
吉岡堅二作『くじゃく窓』 昭和51年(1976)
それまで日本にはなかった概念「パブリックアート」の魁として、話題になりました。
ノートルダム大聖堂『バラ窓』世界遺産
新橋は鉄道発祥の地なので、汽車をモチーフにしています。
向かって左側中央に見えるのは、新橋ー横浜間を運転した、1号機の正面です。
向かって右下の車輪はE102号機。
現在、青梅鉄道公園に保存されています。
向かって左側上部に見えるのは初代新橋駅(現在汐留)
西洋風の二階建て駅舎。
カタカナの「エ」みたいな旗は何の旗かわかりませんでした。
ご存知の方がいらしたら教えて下さい。
アンティークガラスは、フランスとドイツから直接取り寄せられ、完成まで約1年かかりました。
制作中の吉岡堅二さん
ステンドグラスの難しさは、原画をガラスに線割りすることだそうです。
ですよね、ガラスを曲線にカットするのって制約がありそう。
『奈良の鹿』昭和5年(1930)
24歳のときの作品で、第11回帝展で特選を受賞しました。
京都画壇の重鎮、竹内栖鳳が推して、吉岡堅二が注目されることになった代表作です。
アンリ・ルソーの影響が指摘されています。
「生後一週間ほどの子鹿のスケッチをうまく画面に生かすことができた」と吉岡堅二が語っている通り、子鹿のプロポーションが抜群です※1
アンリ・ルソーの影響は、地面の描き方とか?
葉っぱの描き方とか?
上皇上皇后両陛下が令和4年からお住まいになっている仙洞御所の「鶴溜り」
この屏風絵を描かれたのも吉岡堅二さんです。
『飛翔』昭和35年 (1960)
『皇室』令和元年秋号の表紙。
天皇ご夫妻の後ろに飾られている屏風がまされにそれです。
吉岡堅二さんの次女、犬伏紗智子さんは、秋篠宮家の侍女長を務められてました。
そして、何度も申し上げて恐縮ですが、私が卒論で取り組もうとしている、法隆寺金堂壁画修復事業に関わったリーダーのお一人でした。
身近な例をあげますと、本の装丁。
井伏鱒二さんの文庫本を何冊も、吉岡堅二が担当しています。
この表紙、懐かしいーと思う方もいらっしゃるでしょう。
井伏鱒二と言えば、太宰治の師。
そんなご縁からか、太宰治の『桜桃』の装画も吉岡堅二が担当しました。
朝日新聞に連載を開始した『グッド・バイ』の装画も、吉岡堅二でしたが、玉川上水に入水自殺したために、連載は1回で終わってしまいました。
話は脱線しますが、太宰治のお墓は、前回ご紹介した森鴎外のお墓の斜め前にあります(すみません、お墓めぐりが好きなんです)。
太宰治は森鴎外を尊敬していました。
明治、大正を通じて一番の文豪は森鴎外と著書『桜吹雪』の中で語っています。
太宰治いわく、「古来の大人物は、すべて腕力が強かった。ただの学者、政治家を思われる人でも、いざという時には非凡な武技を発揮した」と。
森鴎外は50歳を過ぎて、無礼者に対しては敢然と腕力をふるった、伊藤博文も勝海舟も、偉い宗教家も、みな腕力が強かったそうです。
閑話休題。
そんな吉岡堅二さんが昭和19年(1944)から、亡くなる平成2年まで、アトリエを構えていたのが、東大和市です。
東大和市のアトリエ兼住居は、国有形文化財に登録されており、秋春の2回、公開しています。
そのときの記事は、よろしければこちらを御覧ください。
この秋も吉岡さんのアトリエが公開され、と同時に東大和市郷土博物館で『吉岡堅二展』が開催されていました。
展示作品をご紹介したいのですが、ど・れ・に・し・よ・お・か・な。
リーフレットになっている『乳牛』の牛さんも可愛いしねー。
吉岡さんの動物は目が可愛いんですよ。
が、2000字近くなりましたし、けっこう何枚も吉岡堅二さんの絵をご紹介してしまったので、また次回にしたいと思います。
別件でもう少しお付き合いください。
久しぶりの着物生活普及活動です。
先日、国立音楽大学で文化祭がありました。
お目当てはオーケストラの演奏。
ピアノ柄の帯にご注目ください。
後ろ。
半幅帯です。
自転車で行きました。
校内は降りるというルールだったので、駐輪場まで押しているところです。
<参考資料>
※1 『現代日本画全集第11巻 吉岡堅二』集英社
田中穰氏による作品解説
『法隆寺再現壁画』朝日新聞社 1995年
公益財団法人日本交通文化協会
https://jptca.org/publicart006/
青空文庫 太宰治『花吹雪』
いつきさん、いつもありがとうございます。