円覚寺(1)
6月29日(土)
あじさいの時期は混んでいるから、終わった頃に鎌倉へ行こう、と思っていました。
ところが鎌倉は東京よりわずかに涼しいのか、盛りを過ぎたとは言え、あじさいはまだ見頃でした。
鎌倉へ行くのは仏像が目当てです。
そもそも仏像を好きになったのは、某芸術大学で、仏像を美術品として鑑賞する方法を教わったからでした。
そのおかげで仏像が好きになったのですが、でも少しずつ考えが変わってきて、仏像を美術品として見ることに、違和感を持ちつつあります。
というのも、造形的に美しい仏像がいい仏像だ、という価値観だと、村々の寺院や路傍に立つ石仏は、見向きもされないのです。
それとは別に「民俗学」で、「民間信仰」について学びます。そこでは石仏、石碑、道祖神、屋敷神などが主役になります。
また「美術史概論」では「史」について学びますので、仏像の年代、作者、依頼人、時代背景、思想、などに着眼点が置かれます。
仏像の見方には、いろいろあるのですね。
そんな中で、仏像を知るには仏教について理解を深めなくてはならない、という気持ちが強くなってきました。
夫にそう言うと、「オレも仏教を勉強したい」と言うのです。
私「ほんと? じゃあ一緒に勉強しない?」
夫「いいね、なんなら坊さんになるのもいいかと思ってる」
私「そうなの? 夫クンって、ストイックな修行とかする人だっけ?」
夫「いや、どちらかという坊主丸儲けを目指す」
そんなわけで、坊主丸儲けを目指して、北鎌倉へ行きました。
夫クンが河童のスタンプを押して、これをnoteで使いなさいと。
平安末期から鎌倉時代に、日本仏教は転換期を迎えます。
平安時代には、真言宗、天台宗、の二大密教が貴族権力のもとで勢力を誇っていました。
鎌倉時代になると武士や庶民に信仰が広がり、仏教が多様化します。
浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗、臨済宗、曹洞宗
これら6宗を鎌倉仏教と呼ぶのは、教科書で習った通り。
このうちの臨済宗と曹洞宗は禅宗です。
禅宗は瞑想修行を中心にした、禁欲的で知的な生活形態を重視しています。
それが武士階級を中心とした多くの知識層に受け入れられたのでしょう。
鎌倉で、臨済宗のトップ5寺院を「鎌倉五山」と呼んでいます。
1,建長寺
2,円覚寺
3,寿福寺
4,浄智寺
5,浄妙寺
1番の建長寺と2番の円覚寺へ行ってきました。
駐車場の関係から、円覚寺(えんがくじ)が先です。
円覚寺
まずは円覚寺ホームページから拝借したこの写真をご覧ください。
「谷戸」と呼ばれる、谷にあります。
鎌倉の地形は三方が山に囲まれ、南に相模湾が開けています。
山にいくつもの谷が入り込み、古代から人々が生活を営んできました。
これが鎌倉の特徴です。
南北朝時代の「円覚寺境内図」(重要文化財)です。
山に囲まれた谷にあるのが、おわかり頂けると思います。
円覚寺は、弘安4年、2度目の元寇があった翌年に開かれました。
鎌倉幕府執権北条時宗より、蒙古襲来の殉死者を、敵味方の区別なく弔うために発願されたそうです。
では入っていきます。
総門
円覚寺の正式名称は『瑞鹿山円覚興聖禅寺』です。
法話を聞こうとして白鹿が集まったことから「瑞鹿山」になったと言われています。
山門
山門は「三門」ともいい、三解脱門の象徴だそうです。
三解脱門って?
1)一切を空と観ずる空解脱。
2)一切に差別相のないことを観ずる無相解脱。
3)願求 (がんぐ) の念を捨てる無願解脱。
山門は、煩悩の多い現世との、境界線。
くぐることで、邪念を振り払えるのだそうです。
この山門、夏目漱石の『門』に登場します。
『門』の主人公である宗助は、親友・安井から内縁の妻・御米を奪い、その罪の意識から、ひっそりと暮らしていました。
ある日、安井が満州から帰国することを知った宗助は動揺し、鎌倉の禅寺の門をくぐるのです。
くぐることで、邪念を振り払える山門。
しかし、宗助は、邪念をふり払うことができないのでした。
その禅寺が「円覚寺」だという記述はないのですが、ちょうどこの頃、夏目漱石が円覚寺に下宿しており、風景描写がそっくりです。
山門の楼上には、非公開の観世音菩薩、十二神将、十六羅漢が安置されているそうです。
見たい!と思いましたが、ネットでは出てきませんでした。
まだ門を入ったところですが、2000字を超えてしまったので、次回へ。
2000字は単なる私の目安です。
いつも長い文章におつきあいありがとうございます。
<参考資料>
「神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報誌タウンニュース」
2017年1月27日
「鎌倉手帳」(寺社散策) 編集yoritomo-japan.com
https://www.yoritomo-japan.com/engakuji-soseki.html
円覚寺ホームページ
https://www.engakuji.or.jp/