〈私〉は〈大和〉である――前川佐美雄『大和』私論
はじめに
前川佐美雄の歌集『大和』は1940年8月に刊行された。刊行順でみれば『植物祭』につづく第二歌集だが、1936-39年の歌が収められており、1941年刊の『白鳳』以後の歌が収められている。
『大和』は非常に評価の高い歌集である。このあたりの事情は三枝昂之『前川佐美雄』に詳しく、多くの歌人が『大和』を前川随一の歌集として推奨している。
このnoteは三枝昂之『前川佐美雄』、三枝昂之編『前川佐美雄歌集』を頼りに彼の表現世界を辿ることを目的としている。三枝の読みは精緻だが、以後の前川が戦意高揚歌を読んだこともあり、『大和』の同時代性のあるところに眼を瞑るようなバイアスがかかっている。本稿の目的の一つはこれを克服することにある。
※特にことわりのない場合、三枝からの引用は『前川佐美雄』に拠っている。
1.『白鳳』から『大和』まで
歌壇の状況
まずは1936-39年の前川の動向を探っておこう。
当時の歌壇の状況として注目すべきは伝統派を巻き込んだ自由律への接近、つまり短歌の散文化である。これは伝統派が自由律志向を持った1933-34年にはじまるといえる。しかし、36-38年には定型へと回帰してしまう。そのもっとも直接的な原因は、1935年に発足した超結社的な大日本歌人教会が会員規定を定型遵守に置いたことだろう。もちろん、その背後には十五年戦争勃発以後の検閲の強化による「自由」な短歌の取り締まりがあり、定型を遵守する歌人の危機感があった。三枝は新短歌運動の影響力の失墜を1937年からとする(p.167)。
では、前川の定型モダニズム短歌はどのような位置にいたのだろうか。『白鳳』私論のnoteを提出した際、髙良真実氏が下記のnoteを提供してくださった。noteの添付資料を引用する。
前川が定型モダニズム短歌の中心人物であったことが一目でわかる。その流れは『白鳳』のnoteで触れたから繰り返さない。しかし、『短歌作品』から『日本歌人』の同人として名前が載っている斎藤史には注目したい。斎藤史は言わずもがな、最もすぐれたモダニズム歌人の一人である。
史の父は斎藤瀏、陸軍軍人かつ歌人である。瀏は「心の花」の同人であり、彼は前川を信頼していたらしい(p.168)。しかし1936年、瀏は二・二六事件に関わったかどで免官、禁錮五年の刑に処された。二・二六事件を主導した青年将校には史の幼馴染みであった栗原安秀がおり、彼が処刑されたことで史の歌風は変化する。
三枝によると、前川は瀏の検挙に大きな影響を受けたという。
さて、三枝は『大和』の読解で前川の戦争詠に着目し、そこに反戦的な傾向を読み取ろうとしている。しかし、本論ではしばらくこの立場をとらない。理由は前川佐美雄を新古典主義、さらには『日本浪曼派』という文脈のなかで捉えたいからである。
新古典主義
まずは新古典主義について触れよう。以下の記述は『前川佐美雄』と髙良氏のnoteを参照した。
短歌における新古典主義とは、一言でいえば「革新派の青年歌人に依る日本的伝統と古典との再検討」である(石川信雄「前川佐美雄の近業(二)」『日本歌人』一九三九・二。『石川信雄著作集』所収)。前川は「新古典主義といふのはあらゆる現代精神を通過した古典主義に他ならない」といい、重視されたのは若い感性による古典の捉え直しであった(「新古典主義の方向」『日本歌人』一九三九・一〇。『前川佐美雄全集』第三巻所収)。
三枝のいうとおり、「専門的な緻密な古典研究と佐美雄や茂たちの新興短歌を、結社の看板通りに〝おのがじしに〟両立させていた当時の「心の花」のあり方」(p.209)が、その土壌として大きな役割を果たしたことは確かだろう。しかしながら、その復古主義の根本には『日本浪曼派』の中心人物である保田与重郎との親交、そして前川が1930年に渡欧計画を断念し、1933年に奈良に帰郷したことがあるのではないか。三枝も「佐美雄の新古典主義は(…)まちがいなく、外圧としての伝統復帰主義に後押しされたものである」と触れてはいるが、「新古典主義の成立基盤をそうした時代潮流にばかり求めるのは正しくないだろう」と問題を矮小化している(p.p.211-212)。
保田与重郎の年譜によると、保田は1936年に香川県沙弥島の柿本人麻呂碑の除幕式に前川佐美雄らと参列している(『保田与重郎全集』別巻5, 講談社, 1989. p.105)。また、三枝は保田と前川を含む座談会が『日本歌人』1937年3月に掲載されていることを指摘しており(p.383)、二人はこの時期に関係を持ったとみられる。さらに、前川の年譜には1939年9月に「保田与重郎企画の浪曼叢書の第一冊として選集『くれなゐ』刊行。「日本浪曼派」の保田与重郎(…)らと親交を結ぶ」とある(p.400)。同年9月、前川は「新古典主義の主張を鮮明にする」(p.401)。関係の深化は明白だろう。
むしろ、二人はとても仲が良かったらしい。『日本浪曼派』の同人であった伊藤佐喜雄の回想録には次のようにある。
「縁者」の真否は分からない(彼らと仲が良かった五味康祐の妻は前川佐美雄の妻の妹だったらしいが……)。詳細な検討は専門家に任せよう。ここでは前川とつながるものとして、保田与重郎が思想的な中心をなした『日本浪曼派』を考えたい。
『日本浪曼派批判序説』の視座
『日本浪曼派』は1935年3月から1938年8月まで続いた文芸雑誌である。中心人物は保田与重郎・亀井勝一郎・中谷孝雄で、同人には伊東静雄・檀一雄
太宰治・木山捷平・久保田正文・林房雄・萩原朔太郎・三好達治らがいた。辞書的な説明では「プロレタリア文学運動壊滅後のロマン主義思潮台頭の気運にうながされて詩精神の高揚と古典復興をうたった高踏的な文芸同人雑誌」(大久保典夫「日本浪曼派」『日本近代文学大事典』)とされている。
『日本浪曼派』については、橋川文三『日本浪曼派批判序説』という優れた評論がある(未来社, 1960. 増補版1965.)。以下は本書と本書に関する論文(飛矢崎貴規「橋川文三「日本浪曼派批判序説」の発想と論理」『駿台史學
』2017年9月)を参照してその概略を整理する。
橋川の問題意識は日本浪曼派という現象、つまり昭和10年代の社会状況のなかで生まれた保田与重郎の思想を分析することにあり、くわえてその思想を青春期に受けとめた自身の精神史を位置づけることにあった。その前史、つまり昭和初年代とは社会主義運動が解体された時期であったが、日本浪曼派の基盤はより広範な社会状況に求めることができる。それは大衆社会化の浸透によって自然村とそれによって培われた秩序感覚が解体される状況であり、むしろ解体されるがゆえに中間層の心の中で自然村的秩序意識が仮構される状況であった。その思い出されたふるさとは郷愁を掻き立ててやむことがない。この二者に共通するのは「挫折感」である。
そして、橋川は日本浪曼派の受けとめられかたについて、つまりそれは自身の受けとめかたと関係しつつ、次のように述べる。
さて、昭和初年代の「挫折感」はもはや社会変革に結びつかず無力感として肥大化したが、日本浪曼派はそれを「イロニイ」に結びつけた。「イロニイ」については橋川が引用する保田の文章をみるのが早い。
ここには二つの態度がみられる。まず、彼はいかなる道徳的な・政治的な決定をも下そうとしていない。橋川が「無限に自己決定を留保する心的態度」と呼ぶのはこのことである(p.40)。そして、彼は戦争がどのようなものであるとか、彼自身が戦争とどのように関わらなければならないかを考えない。戦争とその恐怖を神々が「面白く」する神話=歴史の一部として捉えることで、彼自身を「看客」として現実の外に置くとともに、戦争そのものを「雄大なロマンチシズム」に変えてしまうのである。それは「絶対的現状容認」であった(p.42)。
橋川は保田の生まれ育った土地が「たまたま大和朝廷の風土であったということが、保田の美意識もしくは歴史認識に対して、決定的な意味をもったことを思わないではいられない」という(p.89)。橋川は保田と「「故郷」のない貧しい文学青年」(p.91)であった小林秀雄を「戦争のイデオローグとしてもっともユニーク」かつ「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」(p.93)として一括しつつ、両者を比較していく。そこで見出された保田の思想の特徴とは、「感性的郷土」に基盤を置く「没主体」的なロマン主義であり、戦争は「ロマン化されたイロニイ」として捉えられ、古典の意味は「祖述=解釈」によって明らかにされるというものだった(p.90)。保田の思想には「ボンボン的な駘蕩の趣きがいちじるしいようにみえる」という(p.91)。
橋川は小林と保田の「反政治思想」が「もっとも政治的に有効な作用を及ぼしえた」ことの理由として、日本的「美」の観念を挙げる(p.93)。「日本人の生活と思想において、あたかも西欧社会における神の観念のように、普遍的に包括するものが「美」にほかならなかった」(p.94)。これは生活の美化を求める日本人の美意識であり、また「政治に対する美の原理的優越」であった。このとき、「政治が政治として意識せられる以前に、政治の作用が日常的な生活意識の次元で、その美意識の内容として受け取」られることになる。
近代的な政治意識とは、「なぜこの権力がわれわれに服従を要求し強制することができるのか」という問題意識に出発する(p.96)。しかし、日本的近代においては天皇による支配の「帰依と臣従」が基本原理だった。「なぜなら、天皇支配の原理は国家構造の底辺細胞をなす家族と部落共同体においてもひとしく貫通しており、天皇権力への懐疑はそのまま個人生活の日常的局面における自壊と意味したからである」。
時代状況に迎合して何かをそのまま美的なものとして受け入れることには、主体的に判断する人間などなく、また主体的な判断の彼岸にあるべき自然もない。そこでは人間と自然が「無分離」である(p.98)。近代日本文学の「自然」とは自己の感性で捉えられるかぎりの状況を指し、その物語は「人間的欲望(主情主義)の展開」であった。このような日本では、「政治状態はそのまま自然状態と同一視され」たのである。
小林と保田には「政治を「伝統」もしくは「歴史」のうちに解消する態度」がみられる(p.95)。そして、「小林や保田において、「歴史」は「伝統」と同一化せられ、それらは、いずれもまた「美」意識の等価とみられたのである」。保田においては「郷土大和の風土と伝承に対する耽美的愛着の同心円的拡大がかれの「歴史意識」にほかならなかった」。この保田の思想に代表される「戦争下の国民的エネルギー」を、保田は「ナショナリズム」の語を訂正して「耽美的パトリオティズム」と呼ぶ(p.87)。
以下は結論部である。
『大和』解釈の方向性――二つの後記
あまりにも長々と日本浪曼派の思想を追いかけたのは、『大和』の短歌解釈をこの観点から進めたいからである。同時期の前川の論述を追う用意はないが、ここでは二つの歌集の後記を確認しておきたい。
前川は1940年に『大和』(内容的には第三歌集)、翌41年に『白鳳』(内容的には第二歌集)が刊行される前、39年に保田与重郎企画の下で選集『くれなゐ』を発行している。『くれなゐ』は既刊『植物祭』と未刊『大和』『白鳳』から500首を選出した選集だが、その「後記」には次の言葉がある。
ここには無邪気な愛国主義――というより、橋川のいう耽美的パトリオティズム――がうかがえる。保田が悲惨な戦争を歴史=神話の視点から美化するように、前川はいかに変わった短歌であっても「日本の歌」という一点で肯定しようとしていた。
しかし、翌年に刊行された『大和』の「後記」には次のように記されている。
このネガティブな態度はいかに説明できるだろうか。『大和』には1939年夏までの短歌が所収されており、晩夏以降の歌は次の歌集『天平雲』に収められている。であるから、『大和』には『大和』後記の心境に対応する歌がないといえばない。しかし、この態度変更、特に歌集編纂方針の変更は特筆すべきである。強烈な主体性に支えられたテーマ別の歌集から、生きた時間のみに吊りあげられた編年体の歌集へ。この変更は筆者に、前川の「たまたま」な、ある種の歴史性への接近をうかがわせる。
1939年に近代短歌史上にのこる歌集が頻出したことは割愛するが、三枝は1940年から前川の歌集全体の「ニュアンスが変化する」という(p.218)。前川の歌集は1940年から「各年巻頭歌」を新年・賀の歌にするという特別な配慮が施される。三枝は1940年が皇紀2600年に当たる年であることを挙げ、巻頭歌を「国をあげての祝意に自発的に応じた格好の一首だ」という(p.219)。しかし、巻頭歌を新年・賀の歌にすることは、より直接的には勅撰集の編纂方針への接近ではないだろうか。自身の歌集を歴史や伝統のなかに――美しい思い出のなかに――半ば偶然的に――位置づけること。
紀元二千六百年奉祝典は1940年の11月、『大和』の刊行は同年8月である。祝典に向けた全国的な愛国心の高まりのなかで、あるいは保田の評論に繰り返し現れるパトリオティズムのそばで、前川は「短歌は大和のものでなければならぬが(…)僕の作品はまだそこまで手が届いてゐない」と自身の不全さを感じたのではないだろうか。その不全さは上京して都会的・先端的なプロレタリア文学・モダニズム文学と深く関わり、ある種の断念をもって帰郷し、その故郷が「たまたま大和朝廷の風土」であった前川が必然的に抱える揺らぎであった。以後の前川は戦意高揚歌とともに私的な歌を作り続ける。
この揺らぎとともに「故郷と大和の美的な秩序は、他ならぬ自分が担うことによってしか美的なものにならない」(『前川佐美雄』p.219)という意識を抱えていく前川を考えるとき、前川の標榜した新古典主義と保田の「註釈は人工人為による変更解釈でなく、相伝継承である。」という発言が思い出される。筆者はこの観点から『大和』の代表歌である「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」を見てみたいと思うのだ。しかし、まずは『大和』前半部のさらなる達成を確認しければならない。
2.『大和』の表現世界
2.1.〈舞台〉を降りて……
前川佐美雄の第一歌集『植物祭』は〈世界〉になじめない〈私〉を詠んだ歌集だった。そのなじみがたい〈世界〉から脱出するためには、〈世界〉のなかに〈舞台〉を作らなくてはならない。前川は第二歌集『白鳳』において、自身の住む都会と対置される「野」を〈舞台〉として獲得した。
ここで〈私〉は舞台役者として〈異人〉になりきれている。しかし、「野」のイメージはどこか現実的ではない。「野」が生活圏の向こうがわにあることで、前川はそこに非現実的な空想を被せることができた。あたかも〈遠きにありて思ふもの〉である故郷を、美化する代わりに異化したような形である。
前川が1933年に帰郷すると、歌は途端に現実的となり、〈私〉の声は現実の「野」のなかに埋没してしまう。そこで〈私〉はイメージとしての「野」との違和感を叫ぶほかなかった。
『白鳳』で示された解決策は「うた」だった。「野」の自然を「うた」うことは、その現実性にしかと目を向けつつ、それを文芸の世界に遊離させる技である。一言「うた」とつけるだけで、短歌にあった〈世界〉と〈私〉の関係性は〈ことば〉の次元に解消される。
これほどアクロバティックな解決策はないように思われるが、それは現実逃避にほかならず、表現はすぐにパターン化されてしまうだろう。
以上が筆者の『大和』『白鳳』私論の要諦である。
2.2.〈大和〉への反逆
表現技法のレベルでいえば、前川は『植物祭』において〈私〉と〈世界〉のズラしかたを試し、『白鳳』では舞台や舞台装置としていくつかのモチーフを獲得していた。『大和』前半ではその両方の技法が駆使されていく。
それを整理しつつ述べてもいいのだが、冗長になってしまうので、いくつかの優れた歌のみをみることにしよう。
巻頭歌。野は空想上の〈舞台〉などではなく、すでに〈私〉の住む〈世界〉であった。そこが大和なのだから、以下では文脈に応じて〈世界〉と〈大和〉を併用する。〈私〉は〈世界〉のもたらす切なさ・儚さに耐えきれず、紅葉を散らして秋を終わらせようとしている。しかし、紅葉散る風景は秋の風物詩である。〈大和〉への反逆がかえって〈大和〉を明らめてしまうようなねじれがある。
空から樹が降ってきて、今朝は「みどりの春」になった。春の生命力に超常的な力を見ているのだろう。〈世界〉の異なる捉えかたである。
「いますぐに君はこの街に放火せよその焔の何んとうつくしからむ」(『植物祭』)を彷彿とさせる命令形である。「春を…飛び下りよ」を、たとえば夏に逃げるなどと捉えてはいけないだろう。四季にくるまれた〈世界〉そのものからの脱出。〈私〉はすでに閉じ込められているのだ。
三首に共通するのは〈大和〉の一部と直接的に関わっている点であり、それゆえに歌に迫力が生まれていることだ。
2.3.歴史へ
縁故・縁起
前川の帰った場所は縁に満ちている。地縁・血縁・宿縁……。まずは縁起について。ここでいう縁起とはある場所のいわれのことだ。大和の野には白鬼も青鬼も餓鬼もいる。「さあわからないわしは分らない」は、ここでは幻視の許容として読める。
ここでは〈私〉が鬼やそれに近い存在となっている。二首目は再び「君はこの街に放火せよ」が思い出される歌だが、自ら「焔」に混ざろうとしている点が特色である。
ここにおいて歌は〈常界〉から遊離し、ある種の普遍性を獲得しているように思われる。〈異界〉に立つ〈私〉にとって、〈常界〉のすべての生きものはいたわしく感じられる。
〈世界〉は〈私〉の向こうがわにありつつ、すべての〈世界〉は〈私〉を通して立ちあらわれる。目覚めることは、その都度〈世界〉を開闢することにほかならない。〈私〉はあるとき〈異界〉に目覚めるかもしれないし、少なくともそのような感覚に陥ることは考えられる。命はすべて痛々しい。
大和の野には雨が降り、野は濡れそぼち、やすりをかけるような轟音のなか、〈私〉は深々と血縁を思い浮かべる。劇的な場面が印象的な歌である。父を思い起こすのは、〈私〉とともに野に閉じ込められているからだろうか。
〈私〉の歴史、〈世界〉の歴史
「人間の片割」とは男女の片方という意味か、親から生まれたものという意味か。自身の来歴を振りかえるこの歌は、『大和』の後半では次のような深化をとげる。
この歌は三枝に行き届いた解説がある(p.187-190)。鮮やかな紅色に青春を象徴させ、すぐさま「悲しかりける」とつづけて懐旧の念を示す。それを思うのは濃密な「春の夜」だというのだ。
〈世界〉の歴史をなまに感じている歌だ。「うすぐらき蔵の中に来て静かなり今日も歴史の書読みかへす」(昭和十二年「歴史」)という歌もあるから、〈私〉は物を書く行為を歴史への参入とみているのだろう。〈私〉の目論見通りか知らないが、いまだ前川の歌は朽ちていない。
2.4.相伝継承
本歌取り
和歌の詠作法は先例を踏まえつつ歌を詠むことにある。本意も題詠も本歌取りもその一端をなすシステムと言えよう。それは確かに「人工人為による変更解釈でなく、相伝継承」である。もちろん近代短歌は和歌空間の外部につくられたのだから、先例の「変更解釈」と「相伝継承」の割合は実作者によって異なる。たとえばアララギ派は万葉集の歌を「継承」しようとしたが、それは万葉集の語法を自歌に加える「変更」に過ぎなかった、などである。ここで言いたいのは、『大和』後期の前川の歌は古典を「継承」しているのではないかという仮説である。
まずは見えやすい例を考える。この歌は次の万葉集の歌を踏まえているだろう。
中西進の注釈にしたがい簡単な解説を加えておこう。土方娘子は遠国(:静岡県)の氏女(:地方諸氏から朝廷に差し出された女官)とされる。柿本人麿は万葉集の代表的な歌人である。歌中の「隠口」は枕詞で、山間の意から「泊瀬の山」にかかる。
「雲の妹をあはれがりおり」は本歌をつよく想起させる。「夕焼の空のこなたのももいろの」は火葬の詠みかえであろうか。しかし、「ももいろ」という語の選択はどこかロマンチックな抒情性を感じさせる。近代短歌で桃色は与謝野晶子が頻用した語彙である。「妹」を原歌とは異なり恋人や妻と解せば、原歌を近代的な恋愛観の世界に移しかえた巧みな一首といえよう。
この歌は次の高名な万葉集巻頭歌を踏まえている。
ここでは同時代的な評価として赤彦の鑑賞を見ておこう。赤彦によると、この歌は雄略天皇が岡で菜を摘む少女を誘う歌である。古くは「女性の男性に許すときその姓(家)名を男性に告ぐる習はし」があり、天皇はあなたの名を告げよと迫るのだが、後半で自ら名前を明かす「積極的態度」に「雄略天皇の男性的御気稟の独特なる現れ」があるという(「万葉集」(「信濃教育」1918/4。『赤彦全集』第三巻, 1929)p.247)。
しかし、前川の歌はそれほど深読みできないようだ。万葉集に象徴される古代世界への憧れが現れている程度であろう。むしろ、そのあけすけな万葉集尊重に新古典主義・日本浪漫派的なパトリオティズムが感じられる。
「霞」の系譜……和歌の歴史
この高名な歌について、三枝は前登志夫の評を引用している。
三枝は「この名歌を時代読みすることなぞ野暮というものであって、「なにも見えねば」にも時代の嘆きを見る必要は全くない。」という(p.186)。三枝はなぜここで目を瞑ってしまったのだろうか。「野暮」や「必要は全くない」という言いかたは、その読みの可能性を暗に肯定しつつ、感情的に否定しているだけではないか。
では、この歌の「相伝継承」のさまを見ていくことにしよう。まずは和歌における「霞」の詠まれかたについて、『歌ことば歌枕大辞典』(KADOKAWA, 1999)を参照しつつ確認する。
万葉集の時代から霞を詠む和歌には春季のものが多かったが、霞といえば春季と定式化したのは古今集以降である。古今集以降の霞の特性には次の二つがある。まず、霞は「春の到来や春らしい風景を象徴する」。そして、「遠くにある見たいものを隔てたり、隠したりする」。二点目に注目して、具体的に古今集の歌を見てみよう。
古今集では霞は春の桜を隠すことが多かったらしい。見えないからこそ桜の様子が気になるのである。「香をだに盗め」と呼びかける九一番歌、万葉集の「三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや」(額田王・巻一・一八。「三輪山をこのように隠すのか。せめて雲だけで心あってほしいものを。隠すべきではない。」(中西進訳))を踏まえた九四番歌が特徴的だ。
本来は勅撰集を一つずつ見ていくべきだが、新古今和歌集に移ろう。
桜との結びつきは維持されつつ、新たに月や波がモチーフとして獲得されている。一〇一六・一一〇七番歌は恋歌で、霞の奥に相手がいるという発想が興味深い。
以上とは別に、霞に色をみる歌もある。
春霞の輪郭がつかめたところで、時代を遡って万葉集の次の歌を見てみよう。
山に登って見わたすと国土には「煙」が立っており、それが「うまし」(:美しい)「大和の国」だと感じられる。季節は春ではないが、前川の歌にかなり近い発想である。春霞の伝統的な詠まれかたとこの万葉歌のミックスとして前川の歌を読むこと。
「霞」の系譜……前川の歌群
次に、前川自身が霞をどう詠んできたかをみる。
霞のなかでは何も見えないという発想は『白鳳』のころからあった。古今集や新古今集の表現に学んだのかもしれないが、春との結びつきは薄い。ここで霞は生誕の根拠を覆うものとしてある。
では、『大和』ではどうだろうか。非常に多いため、「春がすみ……」以前の歌から特に関連するものを抜粋した。
なにも見えないから「家畜をあがめむとする」、また「独なりけり」と感じるというのは『白鳳』に近い発想だ。気になるのは「昼間」との結びつきである。もっともものがよく見えるはずの真昼間に、霞がかかってものが見えない。前川はその逆説的な事態に惹かれたのではないか。
「眼の見えはせぬ」や「おもかげも見えぬいらだたしさ」は見えないことを主旨としている。「大いなる穴のごときに向ふごと」も同じだが、見えないさまを穴にたとえたのが新鮮だ。こうして「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」につながる。
霞によってなにも見えなくなる歌は多くあった。万葉集には霞立つ景色に大和の美しさを見る歌もある。この歌の新しさは、第一に霞を真昼間に結びつけたことにある。もっとも〈世界〉がよく見えるはずの昼間に、なにも見えなくなること。「春がすみいよよ濃くなる真昼間」と、その時間帯に向けて春霞はますます濃くなっていく。霞と昼間の逆説的な関係が鋭く強調され、そこに色を見る余裕などない。もう一つの新しさは、見えない状態と心情を因果で結びつけたことだ。春の日が差す真昼間、白く輝きを増す霞のなかにいて、なにも見えないのであれば、その人は大和を思うべきだ。
真昼間に何も見えないという発想は、この歌では『植物祭』から続く奇を衒った詠みかたに終始せず、ひとつの象徴性を獲得している。和歌の世界を十分に引き継ぎつつ、視界をおおう霞に歌を集注させ、そこにこそ大和を思えという激的な解決に読者を巻き込んでいく。
この歌に隙があるとすれば、〈私〉の感情が見えてこない点であろう。ここで「大和を思へ」は自分にそう言い聞かせているのではないか……という読みをするとき、途端にこの歌は同時代性に接近する。むしろ〈私〉を現実化せず、無意志的に命令を下す空白の主体を思い浮かべるとき、前登志夫の「大和国原を睥睨して、魑魅魍魎を従えてうたう、この歌の語気をおもうとき、佐美雄の郷土の山巔の神、葛城一言主神が、佐美雄にのりうつった姿を感じる」という解釈が導かれるだろう。ここで三枝の『大和』評を確認する必要がある。
〈私〉は〈大和〉である
三枝は『大和』には昭和十二年の歌から戦争詠が登場するという。三枝は「専門歌人たちの皇国讃美のパターンは、歌としては既に昭和十三年にはできあがっていて、あとはそのボルテージを戦況に応じて高めていっただけ」だと述べる(p.175)。そして、前川も「曲り角は曲っている」、つまり戦争賛美歌もつくってはいるが、専門歌人は「それぞれの形で角を曲る不安を持っていたのであり、曲ることの不本意さもわかって」おり、「そうした振幅の中で振幅の両面を歌に反映させていった」と述べる(p.177)。
また、三枝は昭和十四年の前川の歌は「年間作品集として読めば、主題ははっきりと戦争である」という(p.180)。
三枝はこの歌を「死が易々と殉国の美談にすりかえられてしまうその怖さがここでの関心事であり、それ故に、人間たちのそら寒い熱気とは無縁なところで無心に匂う白梅が、〈私〉にはいぢらしいのである」と評する(p.181)。
この白梅も和歌の世界の重みをもった言葉であろう。『大和』後期の前川の歌は明らかに大和の歴史性へと傾斜している。しかしながら、それは巻き込まれつつあるものとして、それがあるがゆえに〈私〉がそのように感じずにはいられない〈世界〉の表象として存在する。
「春がすみ……」の連作は次のように続いている。白鳥がそこから逃げ出してくれと、〈私〉は野が広いので祈ったことがあったのだろう。「いよよ濃くなる」春霞も野も、そこから抜け出すことができないものとして描かれている。永遠に春を惜しんで立っており、永遠に声を響かせるのはだれか。天皇ではなかろう。これは〈大和〉そのものではないか。
……このように反戦歌としての読みを進めていったとき、筆者の目には次のような歌が映る。
一首目は連作の二つ前、二首目は連作の一つ後の歌である。一首目の命令形は一見すると前登志夫の評した神のようであり、二首目の〈私〉は大和の景に親和しているようだ。二首目のあとには「層雲の彼方に見る見るかき消えしわが子の面のかがやきあはれ」と亡き児を嘆く歌が、そして「戦の日にありながら家のうちのわたくしごとをなげかふあはれ」と戦争を深慮する歌がある。
そう、この揺らぎが重要なのである。戦争は否定しきれていない。大和の歴史性に巻き込まれつつ、巻き込まれていることを自覚しており、自ら深みに落ちていこうともしている。その大和にあって、「生きものは皆そこを動くな」「永遠にひびくこゑとこそ聞け」「大和と思へ」と命じるのは誰なのか。
ここで語り手という概念を導入する必要があろう。「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」と呼びかけるのは作中主体の〈私〉かつ語り手の〈大和〉である。〈大和〉は自身の声をくまなく響かせるべく「大和と思へ」と命令し、〈私〉は自分の思いをひた隠しつつ「大和と思へ」と言い聞かせ、また半ばそのことを信じているのである。「野いばらの咲き匂ふ土のまがなしく生きものは皆そこを動くな」においても、〈私〉は野に魅せられて「生きものは皆そこを動くな」と命令するが、それは野を魅力的に仕立てている〈大和〉の示威でもある。「何ものも従へざればやまずかも永遠にひびくこゑとこそ聞け」においても、全てに従わなければならないとするのは〈私〉の判断であるが、「永遠にひびくこゑとこそ聞け」と命令するのは〈私〉かつ〈大和〉である。
ある同一の言動を、それぞれの真意は異なりつつも〈私〉と〈大和〉が共有している。このとき〈私〉は〈大和〉である。
おわりに
前川の歌集評はここで終わりである。これからは『前川佐美雄歌集』に抄出されている歌集を読んでいくことになる。そのときに注目されるのは一冊の歌集の表現世界ではなく、前川の歌風の変化であろう。
多分に反逆しつつも〈大和〉と同化するような歌をつくった前川がいかに敗戦へと向かい、いかに戦後を生きたのか。これまでとは違ったかたちにはなるが、この目でしかと確認することにしたい。
前川佐美雄の短歌は本当に面白い。