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関東大震災と短歌

写真:写真時報社編『関東大震災画報』(1923)。被災時の日比谷。



はじめに.震災後という時代

1923年9月1日午前11時58分、マグネチュード7.9を記録する関東大震災が起こりました。大規模な火災、土砂災害や液状化、津波が起こり、約10万5400人もの人々が亡くなっています。さらには警察・民衆による朝鮮人虐殺事件が起こりました。

関東大震災が文学に与えた影響は、あたかも震災がカンフル剤となったように語られています。ひとつには震災後に創刊された同人誌から昭和文学を担う作家が生まれたためです。たとえば『文芸時代』には横光利一や川端康成が、『青空』には梶井基次郎が、『驢馬ろば』には中野重治や堀辰雄がおり、優れた作品を発表しました。

短歌はどうでしょうか。特筆すべきは翌24年に創刊される『日光』です。このころは島木赤彦が主導する『アララギ』が大きな力を持っていました。また、様々な結社が分立し、それぞれが閉鎖的な立場をとりはじめていました。『日光』は文芸全体からの歌壇の孤立を打破するべく、結社誌を超え、ジャンルを超えた自由闊達な雑誌として誕生しました。メンバーは前田夕暮・北原白秋・折口信夫(釈迢空)・木下利玄・土岐善麿など、寄稿者は小説家の志賀直哉、詩人の河井酔茗、画家の岸田劉生など錚々たる顔ぶれです。残念ながら1928年に廃刊してしまいますが、短歌においても震災後には新しい風が吹きはじめていました。

以下、歌人の関東大震災詠を選出しました。短歌という視点から震災を一瞥してみましょう。


1.与謝野晶子の震災詠

  天変動く
もろもろのもの心より掻き消さる天変うごくこの時に遭ひ
大正の十二年秋一瞬に滅ぶる街を眼のあたり見る

大正大震災大火災

  地とともになげ
月もまた危き中を脱したる一人と見えぬ都焼くる夜
死するもの幾万と聞く歎けるは数なきまでの数にこそあらめ

『大正大震火災誌』


2.北原白秋の震災詠

  天意下る
言挙げて世をいましむる国つ聖いまあらはれよ天意下りぬ
  この心を見よ
天地あめつちの震ふみぎりも花胡麻のさき営み昼けむとす
  庭を観へつ
しづかなる秋の日照れり阿芙蓉あふようの花あかうして震ひつづけつ

『大正大震火災誌』

  牛
牝牛立つ孟宗もうそうやぶの日のひかりかすかき地震はまだつづくらし

『風隠集』


3.窪田空穂の震災詠

窪田空穂は歌集『鏡葉』(1926)に大部の連作があります。

  九月一日の大震災に、我が家は幸にも被害をまぬかれぬ。あやぶまるる人は数多あれども、訪ひぬべきよすがもなし。二日、震動のおとろへしをたのみて、まづ神田猿楽町なる甥の家あとを見んものとゆく。
燃え残るほのほの原を行きもどり見れども分かず甥が家あたり
地はすべて赤き熾火おきなりこの下に甥のありとも我がいかにせむ
  飯田橋のあたりに接待の水あり、被害者むらがりて飲む
負へる子に水飲ませむとする女手のわななくにみなこぼしたり
  甥きたる
この家に落ちつきてゐればわが家もある心地すと甥のつぶやく
  二日の夜
家の内のあかりは消せと鋭声とごゑして暗きかどより人いましむる
  震災のあとを見にと出つ
人間のなるらむすがた眼にし見む悲しみ聞けど見ずはあり難き
  丸の内
死ねる子を箱にをさめて親の名をねんごろに書きて路に棄ててあり
  見るにもまさりて聞くことの悲し、その片はしを、
焼原をたどるたどるもこや妻か子かとかがみて顔のぞくひと

『鏡葉』


4.土岐善麿の震災詠

土岐善麿は『緑の斜面』(1924)に連作「地上」があります。初出は『改造』(1924/3)ですが、こちらはデジタルコレクションで閲覧できませんでした。

  大正十二年九月一日
背丈にしあまる布団をかいばさみより添ふ子らのうなじを抱く
横しぶく火の粉のながれ淀むまを片頬おさへつつ大路かけ過ぐる
物ひとつ今はあまさず失へるわれのすがたを悔いしむなゆめ

  赤羽橋心光院避難※
両岸よりひた投げに投ぐるつぶてのした沈みし男遂に浮び来ず
  友の家族
人眼さけすゑの娘のまたも来てひつぎのまへにぬかづくあはれ
  焼跡
つまこらもひと眼はみよとすさましき焼あとはらに連れて来りつ
みおもなる姉にのませむ鶏卵たまごひとつ手に握りくればぬくとみにけり

  夜警
わが顔をめぐりはなれる蚊のこゑをなつかしみつつしばし眠らず
  友の惨死※
ひとつぶの梨のしづくにうるほせしその喉はいまは息は通はぬ
うしろより声をもかけず殺したるその卑怯さを語りつぐべし

『緑の斜面』

来嶋靖生『大正歌壇私稿』によると、「両岸よりひた投げに投ぐるつぶてのした沈みい男遂に浮び来ず」はデマによって暴行を受ける(おそらく)朝鮮人の姿を詠んだ歌だといいます。
「友の惨死」は大杉栄を悼んだ歌です。初出にはなく、『緑の斜面』刊行に当たって追加した歌と見られます。憲兵大尉甘粕正彦は関東大震災の混乱に乗じて、社会運動家・無政府主義者である大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一らを殺害しました。彼らを連行すると、大杉栄には食事を振る舞い油断させて背後から首を絞めて殺害し、別室の妻・甥も同様に殺害しました。遺体は井戸に遺棄し、隠蔽を図りました(甘粕事件)。


5.『心の花』の震災詠

佐々木信綱

  大震劫火
阿鼻地獄叫喚地獄画には見つ言には聞きつまさ目にむかふ(一日)
空をやく炎のうづの上にしてしづかなる月のかなしかりけり(一日夜)

坪内逍遥

ノアの世もかくやありけむ荒れくるふ火の海のうちに物みなほろびぬ

九條武子

十重二十重とえはたえ火炎の波におはれゆくいづちゆくべきわが身とも知らず

五島美代子

灰となりし都のはづれ動かざる電車の中に子らは遊べり

以上、初出は『心の花』1923/12だが、デジタルコレクションで閲覧できなかった
ここでは来嶋靖生『大正歌壇私稿』から引用した


6.『アララギ』の震災詠①

『アララギ』(1924/1)には「震災歌」が一挙に掲載されています。最も大きな被害を受けたのは高田浪吉です。彼は母と二人の妹を失いました。

藤沢古実

  九月八日本所に住む浪吉を気づかひ行く、途中浅草寺にて二首
ことごとく焼け亡びたる只だなかになほいましたまふ観世音菩薩
  九月五日夕赤彦先生着京
大なゐの震えにまかせてありしとき有難きかなや君が見えこし

高田浪吉

  大正十二年九月一日
母うへよ火なかにありて病めるをいたはりかねてともに死にけむ
人ごゑも絶えはてにけり家焼くる炎のなかに日は沈みつつ
いとけなき妹よ泣きて燃えあがる火なかに一人さまよひにけむ
道のべに火は残りをり朝ぼらけなににすがらむ人のこころよ

  被服廠跡にて
妻や子に似たるすがたと思へばか父は手づから水をそそぎぬ
  災跡数日経て
秋さりてけふふる雨に母上や妹どちはしとどなるべし
  亡き妹を懐ふ
行きかよふ人らのなかにまじらひて妹の姿見えてくるらし

竹尾忠吉

  九月一日
火明りのひと方暗き夜空ありその空に向ひ人群れ走る
  九月四日
生けるもの遂に踏むべき土もなし広場に満つるこのかばねかな

築地藤子

  九月一日横濱の我家にて
地震のなかに眠り居る子を抱き上げ歩むとすれば家はくづれつ
屋根の下の光ある方へ出でなむと膝を動かすに子は泣き出でぬ
這ひ出でて見れば目の前は平らなり見ゆるかぎりの家は壊れつ

  いち早き人は家にかへり飯など持ち来る。
  我ら未だ昼食も取らざりければ
見ず知らず人が飯食む即ち行き吾子に給へと頭を下げつ
  夕暮れ山を下りて母弟等と共になり草原の
  上に戸板もて雨露をしのぐ
広らなる火明りもややをさまりつ静かに昇る海の上の月
雨ふれば家に帰らなと泣く子をばなぐさめかねて皆黙しゐる

引用しませんでしたが、藤森青二の歌の前書には「大地震のあとなほ昼の三倍の大震来るとの流言葉しきりなり」とあります。朝鮮人への差別的なデマだけではなく、こうした様々なデマが流れていたと考えると納得がいきます。


7.『アララギ』の震災詠②

『アララギ』は震災を記録するため、1924年5月に『灰燼集  大正十二年震災歌集』を出版しました。同書には『アララギ』紙面に掲載された歌を選出し、さらに同人の歌を追加しています。

松田菊枝

  震災の時
一ぽんのろうそく立てて飯を食す暗き厠にこほろぎのなく

荻野谷幸子

  弟震災にて死す
白菊をらむ鋏の音にさへ悲しみ湧くも弟をおもへば

齋藤くに子

おそろしき夜の火空をとびめぐる鳩のつばさの疲れたるらし

星野秀麿

  地震以後
老父は八十山超えて来ましたり我が子の命思ひ給ひて

瀨山龍雄

これが我がありし家かや灰ふかきここが家かや泣きて泣かえず

荒谷信男

  日比谷公園にて
公園の樹立のもとに理髪屋をひらきてありぬ椅子ひとつ置きて

高梨一雄

  高田浪吉氏の心情を偲びて
はらからが生きながら焼けて死にしとふ人の歌よみ涙ながるも

小原節三

  大正十二年九月二日
焼け跡をあゆみ疲れて帰り来しわが家の庭のなでしこの花

中村美穂

地震なゐにずり動きたる父の墓なほして水をそそぎつるかも

島田忠夫

かくだにも人の亡びし跡なれや春ともなればつくづくし

中村憲吉の歌にはいくつかの長い前書があります。証言として貴重でしょう。「九月一日には大阪でも微震を感じたが、それが関東地方に有史以来の大惨災を起してゐるとは、誰人も想像しなかつた。唯、一時に帝都へ通ずつ総ての通信機関が働かなくなつたので、深い疑惑が人心を包んだのである。然し、夜に入るも帝都は以前として国内にその音信を伝えぬために、人々は次第に不安の念に駆らるるに至つた」「深更に至つて、始めて紀州潮岬無線電話局から「大震猛火災。横濱全滅。東京倒壊炎上中」と、身の毛のよだつやうな情報が、たつた一言入つて来たが、それもプツツリと断れて、後は元の深い沈黙が続いた。」「九月二日荘重新聞社に至ると、何時の間にか断片的ではあるが、大震災の情報が溜まつて居り、それを号外に発行しようとして居た。」「日々の新聞記事は、大震災、人間の酸鼻の極を報じて余すなく、読むに耐へざるもののみである。」

8.釈迢空の震災詠


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