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尾山篤二郎「雪の舞踊」と斎藤茂吉の評価(十一月の短歌)
尾山篤二郎について
尾山篤二郎(1889-1963)は石川県金沢市生まれ。15歳のとき、膝関節結核により右足を大腿部から切断。生涯を文筆一本で生計を立てる。歌壇最初の総合誌である「短歌雑誌」の編集に就く。歌集のほかに歌論、古典和歌評釈を書いた。
『現代短歌大事典』では「家庭的にも経済的にも、幸せであったとはいえないが、狷介孤高、奔放不羈、近代短歌史上に特異な光芒を放」つと評価されている(滝沢博夫)。
『秀歌十二月』「十一月」で紹介されるのは最後の歌集『雪客』(春秋社, 1961)の歌だった。
うらはらのそぐはぬ睡り昼をいねてはや時雨降る季節かと思ふ
全体を読めば彼の晩年の苦境がよく読み取れるが、ここでは初期の『さすらひ』(岡村盛花堂, 1913)から「雪の舞踊」の歌を抄出する。
歌集の評価はどうか。『日本近代文学大事典』には次のようにある。
明治四四年春から大正二年秋までの短歌五四三首を収める。すでに『永き巡礼の旅より』(明43)があるが、篤二郎はこれを第一歌集としている。破調の作を含む。やるせない青春の感傷、あこがれ、自然主義の洗礼を受けた赤裸な自己表白の苦悩、大胆な破調を要求する屈折した心情があり、集の基調をなす柔軟でしなやかな調べ、純一な哀愁は後年におよぶ作者の特色を示す。夕暮の序、牧水の序詩があり、祖父、母、外祖父母への献辞がある。
「雪の舞踊」は面白い。青春の鬱屈という言葉は使いたくないが、客観的な叙景歌と主観的な抒情歌、そして定型歌と破調歌が混在しており、屈折した心境がよく読み取れる。
前田夕暮の序文が優れているので(夕暮は歌人ながら多くの散文を残している)、長く引用しよう。ほか、斎藤茂吉に「『さすらひ』を読みて」という歌集評がある。こちらも引用したい。
『さすらひ』
前田夕暮「序」
※「・・」は中略を表す。現代かなづかいに改め、ルビは適宜加減し、: ( )で語釈を付した。
君を始めて知ったのはたしか明治十一年の四月の初めであった。・・君は金沢から昨日出て来たのだといって突然僕を訪ねて呉れた。僕が二階から降りて行った時、庭の四月の初めだというのに白い麦藁帽を被った年の若い一青年が、黒い両杖に凭れて、:莞爾として(にっこりと笑って)日光のなかに立っていた光景を今でもはっきり記憶している。その時君は黒漆の髪、:白哲(色白)の額、日光を浴びていた君の横顔は自分に明るい感じを与えた。・・
其頃、君、:広田楽、富田砕花、中村琢郎君(すべて歌人)と寄合っては、よく夜を徹して語った事があった。水曜会というのを拵えて、毎月第一の水曜日の夜に僕の下宿に集って徹夜をして歌を作った事を今思い出すと何だか涙がこぼれるような気持になる。歌が無くては一日片時でも生きていられなかった頃だった。・・
其頃からして、君は一人別な道を歩いていた。皆が感傷的な気分になって生命懸けで歌っているのを君は少し離れて眺めていたような態度がみえた。それで、君はよく皮肉極ることを歌って皆の反感を買っていた。皆は「どうも尾山は不真面目だ」なぞと蔭でいっていたものだ。然し、それは決して不真面目でも:諧謔(冗談)でもなかったのだ。君の人生観がすべて然らしめたのだった。・・君はそのころからして、君の行くべき孤独の寂しい道を、一人別れて歩んでいたのではあるまいか。
尾山君。
・・君はその頃からして「死」に直接した生活をしていた。君の鋭い主観はいつ知らずそういう厳粛悲痛な生活によってはぐくまれていたのではあるまいか。
尾山君。
君が、君の第一のパンフレットに「永き巡礼の旅より」とし、君の第一歌集を「さすらひ」を名づけたのも、倶に君のためには、忘れえぬ痛苦なる君が過去の生涯の追憶から来た事であろう。僕も。君が歌集の名として最も適切であるということを:否む(否定する)わけにはゆかぬ。・・
・・
尾山君。
自己の生命を吹込んだ尊き作品が最もよい意味に於て理解せられる事は或は望むべからざる事であるかも知れぬ。:徒らに(むやみに)多くの人々によって読まれ直ちに同感せられ、直ちに推称せらるる事はおおかろうけれども、それ等は決して最もよい意味に於ける君が芸術の理解者ではないかも知れぬ。君が第一の歌集「さすらひ」一篇を過去の君と、未来の君との間に措いて、更らに新らしき道程に上るの暁に、僕は現代に於て最も独創的なる君が芸術の理解者たるべく勗むると同時に、君によって誨えらるる事の多きを切望するのである。
・・
二人の関係から筆を起こし、尾山のことを深く理解しながらも、歌集そのものは決して高く評価しない。「更らに新らしき道程に上る」ための歌集として位置付け、自身は友として「最も独創的なる君が芸術の理解者たるべく勗むる」と語っている。定型と破調が入り混じり、主観的な抒情歌、破調歌の多いこの歌集を夕暮は掴みきれなかったのではないだろうか。
しかし、のちの夕暮は自由律短歌に転換する。「君が芸術の理解者たるべく勗」めた結果、と言えるだろうか。
「雪の舞踊」抄
十一月なかの五日に初雪す、かく日記にとめこころをどらす
清らかに降れる雪わが心をば今朝ぬぐひさりあますことなし
手を挙げて招けば雪が手のうへに微笑みきえぬ雪が手のうへに
何処より来れるや、問ひなば雪は知らぬ顔、こころ憎くも水の上に消ゆ
わが魂を休むるにあまり冷し、眼を射て雪のとほく光れる
恐しき吹雪の夜、われ一人かの町をたどりしが……夢にてもあらざりしか
雪の上に杖もてつづる文字の数、わがかなしみのちぢになれとこそ
終りまで生き得るは誰ぞ?……海の雪、山の雪……われ今死ぬるもよし
雪のうへをさぐれば、朽ちし葉一つ、あはれなほ秋のにほひあり
踊り狂ひよろこばしげに降ち来たる、雪に心をぢつと圧さるる
斎藤茂吉「『さすらひ』を読みて」
茂吉が引用した歌を並べながら、彼の評価を辿ってみたい。
春いまだふかからぬ地をゆくりなく去ればさびしや日も白むかな
巻頭の歌。茂吉は「悲しい漂白の心を遺憾なく表現して、深くつつましく悲しく涙を落して歩む巡礼者の心である。」と評する。
わが声のながれ淋しく遠揺れば秋の日人をおもかげにする
「おもかげ」は記憶に残っているその人の姿形のこと。「秋の日ひとをおもかげにする」という表現は素晴らしいと思う。茂吉はこうした歌に「作者の止みがたい詠歎で、そうして仕方なく詠んだというような痕が一つもない」と評する。茂吉は作者の真実の表現というものを求めていたようだ。
匍ひながら犬のごと吠ゆれば、涙ながれぬ、わが室なればとがむるものもなき
茂吉は次のように語る。「自分が真に獣になったり、男が女になったり、小脳が右方に急劇に回転したり、・・そういう事を真実に感じている者であるならば、・・其処に動かすべからざる力がある。然るに普通の人が犬の如き音声を出したとて別に関心する訳には行かないのだ」。とはいうものの、ではどういう表現をとれば〈実感のある非現実的な短歌〉がつくれるのだろうか。
独り寝の蚊帳をつるさへよちよちと悲しきさまをわがなしにけり
わが座れば、なき足の衣のうへに来てさびしく猫は眼をつぶるなる
茂吉は「しみじみと悲しく然かもこよなく厳粛な心にならせる作である」としつつも、こうした歌は「作者は脚一本切断して」いることを先に知っておかなければ成り立たないとし、詞書(前書き)を付すべきだと主張する。
ここには茂吉の〈歌は三十一音だけ、または三十一音+詞書だけで独立すべきもの〉という価値観がある。この考えは今でも根強いと思うが、歌集として読んだときに丁寧な詞書は余分な要素にならないだろうか。歌集を読むときには、上掲のような歌を一首でも読めば作者(あるいは作中主体)が片足を失っていることが分かるのだから、それで充分だと思う。
夕べの街をわが来れば、鈴掛の並木の樹蔭、煙ともわが君はたつ
茂吉は「短歌は形式に就いて約束されたる詩であがゆえに、それ以外のものは無論短歌では無い」と言い切り、『さすらい』の自由律短歌はほとんど全て無視している。しかし、「七五調の今様が一行に書かれたもの」があり、これは興味深いと評価する。
現在の読者は「短歌は五七五七七の形式が必須である」とは考えないだろう。では、短歌には何が必要なのだろうか。いや、何があれば短歌と言えるのだろうか。
茂吉は最後に「若山牧水氏の歌と一番流通している」と、牧水との歌風の類似を指摘している。ということは、これまでの指摘はすべて若山牧水への指摘でもあるわけだ。茂吉は長く牧水の破調歌を非難していた。「『さすらひ』を読みて」への牧水の反論は「「赤光」に就いて」、茂吉の再反論は「若山牧水氏の「赤光に就いて」を読む」にあるが、長くなるので割愛する。詳しくは篠弘『近代短歌論争史 明治大正史』「八章 若山牧水・斎藤茂吉をめぐる破調論議」を参照してほしい。この時期の牧水は破調歌を詠んでおり、またその評価が芳しくなく、大変な苦境にあったようだ。遠くないうちに牧水は定型歌へと回帰する。
付・『秀歌十二月』十一月
このnoteは前川佐美雄『秀歌十二月』読書会との関連で執筆されました。
『秀歌十二月』は古典和歌から近代短歌にわたる150首余の歌を一二ヵ月にわけて鑑賞したものです。立項外の歌を含めると400首ほどになると思われます。
『秀歌十二月』の初版は1965年、筑摩書房から刊行されました。これは国会図書館デジタルコレクションで閲覧……できなくなりました。同書は2023年5月に講談社学術文庫から復刊されています。
読書会を円滑に進めるため、歌に語釈・現代語訳などを付したレジュメを作成しました。疑問点などあればお問い合わせください。レジュメはぽっぷこーんじぇるが作成していますが、桃井御酒さんの詳細な補正を受けています。