実存をめぐる邂逅——Bon Iver×キルケゴール論
要約
Bon Iverの『22, A Million』から『i,i』への軌跡は、Justinの実存をめぐる歩みとして、キルケゴールのいう倫理的実存から宗教的実存への変化として、解することができるのではないか——本論は、この仮説に立ち、『22, A Million』と『i,i』について、前者が世界との対峙を、後者が自己との対峙を、それぞれ主題としていることを論じつつ、この『22, A Million』から『i,i』への変遷をキルケゴールの倫理的実存から宗教的実存への変遷と対比させ、『i,i』への歩みがJustinの実存をめぐるいかなる物語であるかを明らかすることを試みたものである。本論で明らかとなったのは、Bon Iverの『22, A Million』から『i,i』への歩みをキルケゴール式に倫理的実存から宗教的実存への深化と捉えることは、部分的には——社会との対峙から自己との対峙へというマクロな観点からみれば——正しいが、部分的には——『i,i』における宗教に対する態度を宗教的実存における神との対峙と同一視することは難しいという点では——誤っているということである。『22, A Million』及び『i,i』における宗教や神をめぐる描写から明らかとなるのは、Justinにとって宗教の問題は信仰/不信仰といった単純な二分法で片づけることのできるものではない、複雑で微妙な問題であるということだ。
Bon Iverとキルケゴール
2016年のアルバム『22, A Million』は、それまでのBon Iver像を打ち破る、きわめて挑戦的な一枚であった。ウィスコンシンの山奥に籠り、静謐なフォークソングを歌うJustin Vernonの面影はほとんどない。突如として挿入される不協和音や電子エラーの音、オートチューンによって彩られたコーラス——『22, A Milion』はデジタルクワイア=電子化された讃美歌という新たな息吹をシーンに吹き込んだ。
(アルバム『22, A Million』の2曲目。同アルバムの特徴たるデジタルクワイア、記号性、幾何学性が端的に感じられる一曲。曲名は解読不能だし、PVも抽象度が高くて意味がつかめない。)
それから3年、世界的な存在となったBon Iverは錚々たるメンバーを集め、満を持して『i, i』をリリースした。それは、『22, A Million』におけるデジタルクワイアも、『Bon Iver』における静謐なアンビエントも、『For Emma, Forever Ago』におけるアコースティックサウンドも、全てを総括した集大成となった。
(アルバム『i,i』からのシングルカット。Justin Vernonのヴォーカルがまっすぐに心に突き刺さる名バラード。PVの映像はJustin本人の子供のころのホームビデオとのこと。)
そして、『22, A Million』から『i,i』に至り、音楽的な一つの到達点に行き着くと同時に、Bon Iverは一つの実存へとたどり着いた。『i,i』はBon Iverの音楽的な総括であると同時に、Justin Vernonの実存をめぐるドラマの到達点でもある。『22, A Million』において世界と対峙した彼は、『i,i』において、ついに自己自身との実存的な邂逅を果たしたのだ。
世界(“A Million”)と自己(“22”)の対峙から自己(“i”)と自己(“i”)との対峙へ——このようにBon Iverの思想的変遷を捉えなおすと、この変遷が、キルケゴール(注1)のいう倫理的実存から宗教的実存への深化と非常に似通っていることに気づかされる。キルケゴールは、『人生行路の諸段階』(注2)において、いわゆる「実存の三段階説」を説き、「美学的実存」から「倫理的実存」、「宗教的実存」へと深化する実存を論じた。享楽的な満足を追求する美学的実存から、現実にしっかりと根ざした倫理的生活を追い求める倫理的実存を経て、神の前にただ一人、単独者として立つ宗教的実存へと発展することで、我々は真のキリスト者としての生き方を実現するというのである。
つまるところ、本論の出発点となる仮説は次のとおりである。すなわち、「Bon Iverの『22, A Million』から『i,i』への軌跡は、Justinの実存をめぐる歩みとして、キルケゴールのいう倫理的実存から宗教的実存への変化として、解することができるのではないか」——。
上の仮説に立ち、以下、『22, A Million』と『i,i』について、前者が世界との対峙を、後者が自己との対峙を、それぞれ主題としていることを論じつつ、この『22, A Million』から『i,i』への変遷をキルケゴールの倫理的実存から宗教的実存への変遷と対比させ、『i,i』への歩みがJustinの実存をめぐるいかなる物語であるかを明らかにする。併せて、『22, A Million』及び『i,i』において信仰や宗教がいかに表現されているかに焦点を当て、『i,i』への歩みを宗教的実存と捉えることがどの程度可能であるかを検討したい。
Justin Vernonの軌跡——『22, A Million』から『i,i』へ
『22, A Million』——世界と対峙するJustin Vernon
アルバムタイトルについて、Justinの長年の友人でもあり評論家でもあるTrevor Haganは次のように述べている。
以上から見て取れるのは、「22=Justin(自己)」対「A Million=人々(他者)」の構図である。彼のアイデンティティたる「22」と、自己の外の全てである「A Million」がそれぞれ補完し合い、Justinの人格が完成する。山小屋に籠り孤独を歌った『For Emma, Forever Ago』から、自然という外界との出会いを果たした『Bon Iver』を経て、『22, A Million』においてJustinはついに「他者」との出会いを果たすのである。
このように捉えると、今作のアートワークの記号性・幾何学性、あるいは楽曲名や歌詞の記号性・抽象性の意味するところが透けて見える。つまりは人為的なものとしての記号・幾何学であり、「自然」に対置される「人間性」の表象/イメージである(注3)。
一方、ここに「具体的な他者」の像はほとんど見られない。「他者」との対峙をテーマに据えながら、形のある他者、個別具体的な社会は姿を現さない。その意味で、本作の「自己」と「他者」の邂逅を、Justinが他者との出会いを通じて人間的な成熟を果たすというありきたりな物語として読むことはできない。むしろ、Justinが「A Million」を「無限で終わりのない、自分を自分らしくする自己の外の全て」とみなすとき、そこにある「A Million」としての他者とは、レヴィナス(注4)的な意味での絶対的な差異性を有する到達不可能なものとしての他者である(注5)。本作の楽曲には、「愛と争い」や「陰と陽」、「現在と永遠」といった二項対立とそのパラドクス、ジレンマをテーマとするものが多い。『22, A Million』は、「22」と「A Million」をめぐる相克、すなわち、自己と他者は必然的にかかわりを持つにもかかわらず、その他者は自己とは絶対的に異なる到達不可能な存在であるという弁証論を歌っているのである。
『i, i』——自己と対峙するJustin Vernon
一方、『22, A Million』から3年後にリリースされた『i,i』は、そのアルバムタイトルが端的に示しているように、「i」と「i」=自己と自己の対峙がテーマとなっている。元バンドメンバーのBrad CookがJustinに話したところを、Justinは以下のように回想する。
この言葉のとおり、『i,i』は『22, A Million』に比べてボーカルのディストーションが非常に少なくなっている。この音楽的変化は自己への回帰を示す一例だ。あるいは“We”において繰り返される「僕は取り戻したい」というリフレイン。このフレーズはJustinの自己との対峙へと向かう心情を端的に示している。
また、Justinは、『i,i』というアルバムタイトルについて、以下のように語っている。
自己との対峙は、言うまでもなく自己のアイデンティティや存在の意味を問うことであるが、この発言をみるに、その先には他者とのつながりが想定されている(そして実際に、本作は多くのコラボレーターを迎えて創り上げられている。)。つまり、『22, A Million』において抽象的で到達不可能な存在とされた他者は、『i,i』では理解可能な、自分と同じように見て、聴いて、感じる存在として描かれている。"Naeem"の「僕と一緒に君が聴こえる」、「君の気持ちは分かる」といったフレーズは上の他者理解を象徴的に示している。いわば、他者理解がレヴィナス的なものからフッサール(注6)的なものへ——「絶対的に到達不可能なものとしての他者」から「自己の体験の投射としての他者」へ——と変化しているのである。
同時に、この他者は抽象的であることを止め、多分に具体的となっている。Justinの前には秋の朝日が差し込み、電話に出る母が、古着屋の店長が、世界を彩っている。そこにあるのは、もはや記号的、抽象的な他者ではない。Justinは、『i,i』に至り、自己との対峙を通して、同じように生きる到達可能な他者の存在、苦悩し日々を生きる具体的・個別的な他者の存在にたどり着いたのである。
キルケゴールの軌跡——倫理的実存から宗教的実存へ
話をキルケゴール側に移そう。セーレン・キルケゴールは、1813年にデンマークで生まれた哲学者である。今日、彼の思想は実存主義の先駆けであると評価されているが、この評価は、人間の生には世界や歴史に還元できない固有の本質があると説いた点に存する。よく知られた「死に至る病とは絶望のことである」という一節もまた、ヘーゲル哲学や教会が個々人の心の中にある絶望を見逃しているという問題意識から、個別・具体的な事実存在としての人間を重視した彼の思想を示すものだ。本論では、Bon Iverとの関係から特に問題となる、実存の3段階説における「倫理的実存」と「宗教的実存」に焦点を当てる(注7)。
実存の3段階とは、キルケゴールが『人生行路の諸段階』において論じた自己を主体として措定するまでの一連の段階である。その段階は「美学的実存」、「倫理的実存」、「宗教的実存」の三つから成り、キルケゴールはこの三つの局面を経て実存が深化していくと主張した。美学的実存・倫理的実存には限界があり、実存は宗教的実存まで高められねばならないというのである。
実存の最初の段階は美学的実存である。一般に「美学」というと、芸術作品などとの関わりを想起させるが、ここでキルケゴールが意図しているのはそうではない。キルケゴールはこの実存の「空想的」あり方を指して「美学的」と形容している。ゆえに、この美学的実存は主体的でしかあり得ない。彼が美学的実存の段階を示す例として、感覚的欲望という悪魔的力を肯定するドン・ジュアンを、あるいは知の絶対性に惑わされ現実性を無視したファウストを引き合いに出すとき、それは美学的実存がいかに幻想性と空想性に支配された非現実的なあり方であるかが強調されているのである。
続く段階は倫理的実存である。美学的実存が多様性、変わりやすさ、偶然、あるいは主観性、空想性といった原理に依るのと対照的に、倫理的実存は普遍的統一を目指す。キルケゴールはこの対照性を分かりやすく示すべく、倫理的実存を「結婚」というキーワードから説明する。結婚は、「実存のあらゆる葛藤的様相の総合を実現し、その結果、実存との和解を具体的に現実化し終えた形態」である。美学的実存が恋に酔いしれた夢遊病患者であるのに対し、倫理的実存は結婚によって不変性と永遠を誓い、普遍的なものの実現を目指す。そして、この結婚によって、倫理的実存は公明であるという義務を果たし、世間との具体的・現実的関係を結び、現実における普遍的なものを説明するのである。
最後の段階は宗教的実存である。これは、倫理的実存においては「個人が自らを自分自身で救えると信じて、宗教的なものを自らの意志の力の下位に置いて」おり、倫理的個体性の措定が脆弱となることから要請される実存の最終段階である。家族や共同体との相対的な義務を果たす客観的道徳性を超え、神との絶対的な倫理的関係に入り、絶対者に対する個人の単独的関係を実現することで、自らの実存的個体化は成し遂げられる。その意味で、宗教的実存とはまずもって絶対者としての神との対峙を意味するわけであるが、この神との対峙によって自らが根本的に如何なる存在かを知り、ついには自己との対峙が果たされる。キルケゴールが信仰というものが単独者による神との対峙によって可能になると論じるとき、そこでは「主体」としての信仰者、「個人」としての信仰者がキリストと同時に立つことが問題とされているのである。
キルケゴールは単独者として神の前に立つことによって宗教的実存を実現すると説いたわけであるが、この単独者としての対峙の仕方は、『死に至る病』における上の象徴的な一節が明晰に示しているように、「全く彼自身であろうとあえてすること」であるという意味で、生々しい自己それ自体との対峙に他ならない。我々は宗教的実存において、神との対峙を通じて自己との対峙を果たすのである。
『i,i』と宗教的実存、Justin Vernonと信仰
以上、キルケゴールのいう倫理的実存と宗教的実存の意味するところを概観してきた。倫理的実存が共同体や社会との対峙を意味するという点、あるいは一種の普遍性を目指すという点で『22, A Million』と共通点をもち、宗教的実存が自己との対峙という点で『i, i』と共通点をもつことが明らかとなったのではないだろうか。
一方、これをもって両者はパラレルに対応していると結論づけるのは早計である。『22, A Million』=「倫理的実存」から『i,i』=「宗教的実存」へ、という図式の妥当性を考える上で問題となるのは、『i,i』において宗教的要素をいかに読み取ることが可能かという点である。確かに『i,i』と宗教的実存は自己との対峙を主題とする点で共通点を持つが、後者においてはその大前提として「神との対峙」が重視されているのであった。宗教的実存においては絶対者としての神の役割が重視されるところ、『i,i』において宗教や神が描写されているのか、されているとすればいかに描写されているかを検討する必要がある。以下、宗教的実存との関係から、『22, A Million』及び『i,i』において神や信仰といった宗教的要素がいかに描写されているかを確認し、『i,i』への歩みをキルケゴールの「宗教的実存」への歩みとパラレルに捉えることがどの程度可能かを明らかにする。
『22, A Million』における神、信仰
『22, A Million』における宗教へのアティチュードを端的に示す一曲が「33“GOD”」である。タイトルに「GOD」とあることから想定される通り、本楽曲は宗教・神をテーマに据えた楽曲となっており、リリックビデオの冒頭には、旧約聖書のある一節が掲げられている。
これは旧約聖書の『詩編』22編の一節であり、イエス・キリストが十字架上で発した言葉とされる。
一方で歌詞に目をやると、「私」の神に対する態度が変容する様が見て取れる。「ぼくらは階段をのぼっていく、ぼくは神を発見する、そして、宗教も」と神との出会いを果たしたかと思えば、「私はその夜あなたを必要としなかった。これからももう、必要じゃない」と、神からの独立が示唆される。これらの歌詞を踏まえると、PVの冒頭に「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」という一節が引用された意図が明らかとなる。私は、神と出会ったものの神が救いをもたらさないないことに嘆き、もはや神は必要ない、と神からの独立を果たすのである。
『i,i』における神、信仰
『i,i』は『22, A Million』ほど宗教的レトリックが直截的に用いられている作品ではなく、『22, A Million』同様、あるいはそれ以上に歌詞の意味をくみ取ることの難しい箇所がほとんどだ。その中で、"Faith"の「There is no design」という一節は示唆的である。Justinはもはや世界の「創造主としての神」を信じていない(注8)。だが、創造主としての神を否定しているからといってJustinが信仰を失ったと結論付けるのは早計だろう。"Faith"における別のフレーズを見てみよう。
特に「私の信仰=MY BELIEVING」という表現は示唆的だ(注9)。『22, A Million』におけるJustinの神に対する困惑した態度は『i,i』においても存在しており、その意味でJustinの信仰は確かに衰退している。だが、「I DID MY BELIEVING」という一節を見るに、『i,i』への歩みを信仰の衰退という形で単純化することはできない。通俗的な意味での信仰は失われたかもしれない。だが、宗教的実存、実存としての信仰という意味では、Justinの信仰は未だ失われていない。信仰は『i,i』においてもなお複雑で微妙な問題であり続けているのである。
"Holyfields"における「新たな道を見つけた方がいい」という新たな選択を推奨するフレーズや"Salem"における「自動的に平和は訪れない」という保守主義へのささやかな反発を込めたフレーズ、あるいは"Faith"における「ただのページに惑わされたりしない」という硬直化したドグマを批判するフレーズなどをみるに、旧套墨守な信仰像に対してJustinが距離を取っていることを示す箇所は多い。他方、"iMi"における「違う道を見つめてみた」、「許しが日課ならなぜ待っているのか?…これ以上無視するわけにはいかない」、あるいは"RABi"における「もし待てば取り返しがつかなくなる」というフレーズは、受動的な信仰から能動的な信仰への進路転換のようでもあり、"RABi"における「すべては大丈夫だ、そしてすべては大丈夫なんだ」と安寧を語り掛けるかのようなフレーズ、あるいは"Sh’Diah"における「神に捧げる時間を見つけたんだ」といったフレーズを斟酌するに、Justinが信仰を失ったと判断するのもまた早計であろう。
Justinは『22, A Million』において救いをもたらさない神からの独立を宣言したわけであるが、基本的にはそのスタンスは『i,i』においても変わっていないと言ってよい。だが、それをもってJustinが信仰を捨て去ったと断言するのは早計である。単純に信仰/非信仰という二分法でもってJustinの宗教・神に対する態度を表現することは不可能であり、彼にとって信仰とは、複雑で微妙な存在であり続けているのである。
結びに代えて
本論は、「Bon Iverの『22, A Million』から『i,i』への軌跡は、Justinの実存をめぐる歩みとして、キルケゴールのいう倫理的実存から宗教的実存への変化として、解することができるのではないか」という仮説から出発したわけであるが、以上の議論でこの仮説がどの程度妥当であるかが明らかになったのではないだろうか。
『22, A Million』はまずもって「世界との対峙」をテーマとするという点でキルケゴールの倫理的実存と共通項をもつ。さらに他者が抽象的・記号的に描かれるという『22, A Million』のレトリックは、倫理的実存において強調される普遍性の重視とも地平を共有する。『i,i』については同作が「自己との対峙」をテーマとするという点で、宗教的実存と共通項をもつ。
一方で、宗教という点については『i,i』と宗教的実存の違いが明らかになる。『i,i』においては『22, A Million』同様、信仰に対する信頼は薄らいでおり、Justinは救いをもたらすものとしての神、あるいは創造主としての神、という考えからは距離を置いている。ゆえに、これは絶対者としての神と対峙するという宗教的実存の在り方とは相いれない。ただし、『i,i』の全てが信仰に否定的かというとそうではなく、Justinが新たな決断や信念について歌うとき、そこには信仰への信頼の残滓が感じられる。そして、キルケゴールが宗教的実存について論じるときに市民社会の中で堕落した宗教、教会に厳しい批判を加えていたことを考慮に入れれば、旧套墨守な宗教の在り方に批判的な『i,i』の態度は、宗教的実存と全く相容れないということもできない(注10)。
以上をみるに、Bon Iverの『22, A Million』から『i,i』への歩みをキルケゴール式に倫理的実存から宗教的実存への深化と捉えることは、部分的には——社会との対峙から自己との対峙へというマクロな観点からみれば——正しいが、部分的には——『i,i』における宗教に対する態度を宗教的実存における神との対峙と同一視することは難しいという点では——誤っているというのが結論となる。また、『i,i』でJustinが自己との対峙を果たす際に自己以外の他者との関係を重視していたことも考えると、単独者としてふるまうことが重視される宗教的実存との差異は一層明らかとなる。
Bon Iverの音楽には、Justinの人生が込められている。絶望的な苦しみの中で、ウィスコンシンの山小屋から始まった彼の音楽は、常に彼の実存とともにある。弱さをさらけ出し赤裸々に孤独を歌った『For Emma, Forever Ago』から自己との対峙を果たす『i,i』に至るまで、彼の音楽は、彼の生きる時代の、彼の生きる社会の、彼の生きるコミュニティの、——彼の人生のただ中にある。ゆえに、彼の音楽は実直に現実に向き合うという意味で現実主義的であり、そのあまりに誠実な向き合い方は同時に理想主義的でもある。Bon Iverの音楽には、実存のただ中で理想に向けて生きることの美しさと苦しみが込められている。
脚注
(注1)セーレン・キルケゴール(1813-1855):デンマークの哲学者。しばしば「実存主義の先駆者」と紹介される。詳細は後述。
(注2)セーレン・キルケゴール (1963)『キルケゴール著作集〈第13巻〉人生行路の諸段階』
(注3)『22, A Million』以前の2作品のアートワークと比較すると、このことはより明らかだろう。『Bon Iver』のアートワークは水彩画の如く自然が描写され、『For Emma, Forever Ago』では窓から見た木々がアートワークとなっている。
(注4)エマニュエル・レヴィナス(1906-1995):フランスの哲学者。現象学を出発点に、第二次世界大戦の過酷な経験を背景とした他者論や自身の出自であるユダヤ思想を背景とした倫理学などを展開した。
(注5)ユダヤ人であるレヴィナスは第二次世界大戦で実に過酷な経験をしており、この経験から、自己に対して無関心であるような絶対的「他者」の思想を見出したとされる。詳しくは主著『全体性と無限』を参照されたい。
(注6)エトムント・フッサール(1859-1938):オーストリアの哲学者であり、現象学を提唱したことで知られる。他者論の関係では、「西洋哲学において初めて「私」とは異なる認識を持つ主体として「他者」認識を捉えようとした」人物(関未玲 (2013)「21世紀の展望と他者論」p.12)であるとされる。
(注7)以下、オリヴィエ・コーリー (1995)『キルケゴール』及び笠井哲 (2022)「キルケゴールにおける「実存の三段階説」の意義について」の記述に依る。
(注8)design=デザインとは、特に進化論との関係から創造主としての神の存在を連想させる言葉である。それがno designだというのだから、神がこの世界を創造したとする創造説に対する批判的なニュアンスが込められているといえる。
(注9)歌詞カードにおいて、このフレーズは全て大文字の中央揃えで記載されており、明らかに強調されている。
(注10)実際に、キルケゴールは従来のキリスト教・教会の外面的・形式的・集団的信仰を批判し、信仰は内面的・個別的でしかあり得ないと強調していた。