介護人として考えておきたいこと(私論)

もう15年以上は前になるだろうか。あるとき、僕が福祉関係の者と知ってある方から問い掛けられたことがある。
「無差別の通り魔殺人とかで、犯人が精神疾患を持ってたら無罪になるじゃないですか。あれって、福祉的に考えるとどうなんですか?」と。
少しニュアンスは変わるかもしれないが、最近の事件事故に読み替えると、こういう疑問を突き付けられるかもしれない。
「認知症の年寄りが運転して事故を起こし、轢かれた人が死んでしまったとしても、判断能力が無いと認定されたら無罪。それってどうなんだろう?」
 
皆さんはどう考えられるだろうか。法律的あるいは医学的な素養や福祉的な知識が有っても無くても様々な考えがあると思う。また、もしその当事者や関係者だったとしたならばまた違う見方が出てくるに違いない。僕は、この類の事象についてはその時々の時代背景を踏まえながら判例を積み重ねていくことで、人が人として悩みつつ人類としての方向性を見出していくものだと考えている。だから、安易な結論は出せない。
 
ただ、今現在の僕が意見させてもらうとしたならば、もし、裁判員に選ばれてこのような事件と向き合わねばならなくなったとしたら、こう述べるはずである。
「当事者はいかなる事情があったとしても、起こした事象についての理解が及んでいようがいまいが人間を殺めた罪は償うべき。ただ、そうなるに至った背景・経緯・周囲の関わりこそが着目されるべき点であり、再発防止のためにはそれらに策を講じねばならない」と。未熟者の浅慮だからツッコミどころ満載だし、それなのにわざわざ文書にしていることへの批判は甘んじて受けようと思う。そして、あと10年20年後にもし僕が生きていたとしたら、この考えがおそらく変説しているであろうことはあらかじめお伝えしておきたい。
ちなみに、冒頭の質問をぶつけられた30そこそこの僕は、何も言えずに黙りこくって唇を噛んでいたのである。
 
福祉的思考は、事象だけでなくその形成過程、つまりプロセスにも着目しアプローチする。だからたとえ認知症になって行動そのものが自分の意識の管理下に置けない状況となっても、何故そのような結果に至ったのか、支援者・介護者である僕たちがそのことに考えを及ぼさねばならない。多くの場合、それらは推測や推察の域を超えない。利用者さんたちのアタマの中を開けて見てみたいと思ったことのある介護者は、きっと少なくないはずである。特に、悲しみや辛さを表現されているとき。寂しそうな表情でいらっしゃるとき。僕たちより何十年も多くの人生経験を経て今を生きている高齢者は、僕たちが想像できる何倍もの悲しさや悔しさ、寂しさをその心に受け止めて、それでも受け止めきれない溢れる想いを現されているのではないだろうか。僕たちはそれを見聞きして、至らぬ想像をあれやこれやしながら近づこうとすることしかできない。
 
自分たちの想像が完全なる事実に決して及ばないことを知りながらも努力を惜しまない人たちを僕はプロの介護人と呼びたいし、そこで立ち止まれない輩は介助技術屋に過ぎないと、誤解を恐れずに言っておく。

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