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結婚式に出席して自分の中のミソジニーに気づいた
地元に帰って従姉妹の結婚式に出席した。子連れで飛行機に乗って地元に帰ること、式場を縦横無尽に走り回る3歳を諌めるのは苦行であったが、よい式だった。
感性が単純なのか、結婚式で新婦の入場シーンを見ると大概感動して泣く。
新郎新婦のムービーを見ても大体泣く。
お約束と思いながら、自動的にエモイ気持ちになって泣けてくる。
今回の結婚式で特にすごかったのは、友人の多さである。2人は大学で出会ったらしく、スクリーンに写し出される友人達との朗らかな写真の数々には、さぞ充実感した大学生活を送ってきたのであろう、と圧倒された。これぞリア充…。
友人のスピーチも素晴らしく、新郎新婦が如何に周りから好かれる善男善女であるかが伝わってきた。
従姉妹は、普段おっとりしており、美男美女が多い家系の中では、どちらかというと地味なタイプである。(顔は私に似ているかもしれない。)
しかし、子どものときからのびのび遊び、好きな楽器やスポーツに打ち込み、友達を沢山つくって、自分の夢を叶えた。自分の凄さをアピールすることはないが、いつも静かで穏やかな自信に満ちている。
子どものときからのおっとりした優しい性格や容姿は今も変わっていない。彼女は、なにも変わらず、自分のままで素敵な大人になっていた。
このような素敵な女性が素敵な男性と結婚するのは至極当たり前だ。
従姉妹の両親は毒親ではない。
大変愛情深く、優しい両親だ。
兄弟に皆平等に接しているので、兄弟間も仲良く、家族全体をほわんとした暖かい空気感が流れている。
(祖父母と同居していたので、祖父母からも愛情をたっぷりうけて育っている)
私は自分との違いに愕然としてしまった。容姿が良くないと愛されないし幸せになれないと思い込み、内面をこじらせた。親から認められてきていないので、自信がなく、ありのままの自分の性質を認められず、自分を変えようと躍起になり、周囲からは馬鹿にされた。また、鬱になり、夢も見失った。
表面上では否定しながらも、未だに心の奥底で、「女の幸せ」は容姿で決まるという間違った思い込みをしていたようだ。美しければ、男性から選ばれる、というミソジニーとルッキズム満載の認知の歪みが自分の中にある。
改めて、「女の幸せ」は家族から愛されてきたかどうかで、決まる、が正しいなと思った。むしろ、過剰に容姿にこだわるのは家族から愛されてきていないからかもしれない。
過去は変えられないし、過去の積み重ねで今の自分がいる。
愛されて育ってきた人のように生きることはできないけれど、過去よりも今の自分を愛せるように、自分の中の歪みと向き合いながら、日々頑張りたい。なんでもない毎日がイバラの道で、血を流しながら生きているような感覚だ。子どもに毒を連鎖させないために、生きる。
毒親育ちの皆さん、共に頑張ってまいりましょう。