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短編小説「夜のカフェテラス」

 私は、生まれて初めてできた彼女を失った。
 もう何年も昔のことのように感じるが、たった一年前のこと。その傷はいえることもなく、私の中で黒い感情とともに渦巻いている。

 結婚すら見えていたというのに。なぜ彼女はいなくなってしまったのか。
 たった一人しかいなかった頼れる人を失い、次に頼るはずだった友達や親ですら、このショックで傷つけてしまった。自分が自暴自棄になってさえいなければ。きっとこのようなことにはならなかったのだろう。
 そんな自責の念が自分の心に鋭い槍となって突き刺さる。

 今日もまた、夜道であの日のことを思い出した。

 親に、「勉強しなさい」と責め立てられた日のこと。もちろん、勉強なんてするはずもなかった。私にはできない。勉強すらできない、やろうとしない自分が嫌だった。

 私は声を裏返しながら声を張り上げてそのまま家の扉を開けた。根も葉もない言葉を親にぶつけて。

 いやなほどに煌めく空に浮く星々。光るもの、輝くもの、音を立てるものすべてが荒れた感情を増幅させた。一切の刺激もいらない。真っ暗な世界に飛び込んで、何も見えない世界で死んでしまいたい。

 外気温のように冷たい私の心は、冷え切っていくばかりだった。私の手には触れられないほどに冷たくなっていった。
規則的に並ぶ石畳の道をコツコツと音を立てて歩く。

 服を並べるお店、大きな宝石の乗ったアクセサリーを並べるお店。楽しそうな笑みを浮かべながら、親の腕がちぎれるぐらいに抱き着いている子供の横を通る。私にもあんな時期があったのだろうか。くれぐれも彼女にはこうならないように生きてほしい。何なら私の残りの人生をプレゼントしてもいい。

 こんなものプレゼントされたってどうにもならないだろうけど。

 どれほど家から離れただろう。大きな川を繋ぐ石造りの橋を一本渡ってきた。
大通りは人が多く、輝いていた。毛皮でできたコートを羽織る女性と手をつなぐスーツ姿の男性。二人の左手の薬指には淡い金色に輝く指輪があった。暖かい街灯の光に照らされて、優しく輝いている。

 私は無意識に裏路地のほうに足を向けた。

 ひたすらに静寂が横たわる裏路地にも、もちろん人はいた。みんな同じような感情なのだろうか。あるはずもないことを考えながら、不規則に並ぶ石畳を歩いた。

 川のすぐそばにある裏路地は、明らかに悪意を持った風が吹いていた。凍りつきそうな痛みを伴う風。
 いつもなら、「早く家に帰ろう」と思う。
 でも、帰る場所のない私にその言葉は通用しない。今更帰ってもどうせ怒られる。また、勉強しろ、あれやれこれやれと言われる。やらなきゃいけないのはわかっているのに。

 それでも手を動かそうとしない私はどうかしている。自分の情けなさに思わず飛び出した白い息は、先の見えない暗い路地に溶けていった。

どこにも響かない小さな声は、私とは比べ物にならないくらい大きく、遠い存在の夜空に溶け込む。
 暫く歩き続けて生命の危機を感じた私は、苦肉の策でカフェから漂ってくる暖かい風を少しだけおすそ分けしてもらうことにした。手先が赤く染まり、これ以上は歩けそうになかった。

 閉まって暗くなった店の前にある小さな段差に座り込む。木製だからか、思ったより冷たくはなかった。
目を閉じて、開けたとき、新しい世界が広がっていてほしい。

 私を撫でるように通り過ぎる暖かい空気の中には、いくらか食材の香りが混じっていた。クリーミーな香りの中に混ざる煮崩れ寸前の野菜が頭に浮かぶ。次にこうなったときは、ここのスープを、この味を口にしよう。

 心にじわりと広がる温かみを持った何かに包まれて、私は瞼を下した。

「あの、もしよければ、どうぞ」

 低く、優しい声で私は目を覚ました。顔を上げると、肩できれいに切りそろえられた髪をしなやかに揺らし、その人は私の前にしゃがみ込む。

茶色のストライプが入った小さめのキャスケット帽に、白いシャツ、紺色のジーンズに腰の高さで巻かれたエプロン。いかにもカフェのスタッフを彷彿とさせる姿の女性。

 なぜかマグカップに入った温かいスープを受け取る。マッシュルームが浮かぶ黄色いスープは、目を閉じる前、最後に鼻腔をかすめた匂いと同じだった。

「どうされたんですか? こんな時間に」

 地面に座り込むことなく、しゃがんだまま私の様子をうかがう。私を見つめるまっすぐな瞳は、何もない空の心を少しずつ満たしていった。久しぶりに心配されたかもしれない。

 それでも正直に答えるようなことを私はしなかった。私を気にかけなくていい。そう伝えるように私は一言添えて首を横に振った。

「そうですか。何もないならいいですけど。それだったらこんな時間にこんな場所にはいないはずですよね」

 ほっといて。考えるより先に出た言葉。
 彼女はそれに目を丸くする。

「スープ飲んだら早く家に戻ってください。私と同い年ぐらいのように見えますが、男女かかわらず危険ですよ、夜の街」

 目を細め、少しだけ語気を強める。彼女は私が言葉を継ぐ前にその場から立ち去った。

 それが、私と彼女の出会いだった。

 その数日後、私は彼女に振り回されるようにして心のうちすべてを話してしまった。彼女はあっけらかんとした表情で私の話に耳を傾け、私が無理やりにでも笑うと一緒に笑う。

 通う学校こそ違ったものの、目指す場所は同じだった。感情のない私に対して彼女はありとあらゆる表情を持ち合わせている。そんな整った顔立ちから繰り出される笑顔は私の心を少しずつ整えていった。

 逆に彼女は何でも行動を優先してしまうがあまり、歯止めが利かなくなることがあると自分で言う。それがわかっているだけ十分な気もするが。

 私は彼女の歯止め役として。
 彼女は私の励まし役として。

 恋よりも、愛を主軸にして私たちは共に成長していった。

「恋っていうのはね、自分が幸せになるもの。愛っていうのは、二人で幸せになるもの。君がいま私にしているのは恋じゃなくて、愛」

「私が君を幸せにできているとは思えないけど」

「え? 私は今とっても幸せだよ。君に歯止めをかけてもらうようになってからミスも減ったしちょうどいいくらい! だからね、私も君が好きだし、君を助けたい。私とでよければ、一緒に頑張ろう?」

 私が彼女に思いを告げたとき、彼女もまた、思いを告げた。その時の言葉は、油汚れのようにこびりついて私の頭の中にある。まるで、彼女がまだ存在しているかのように嫌なほど存在感を放っていた。

「今までありがとう。私がいないほうが君は幸せになれる。私は大丈夫だから。ばいばい」

 そんな歪んだ文字の置き手紙と開かれた窓の景色を目にしたのは一年後。君を必死に探し回ったけど、どこにもいなかった。その翌日の新聞の一面を飾ったのはこの近辺であった殺害事件。その字面を見て、私はすべてをあきらめた。

 世界は私の敵だ。私の大切な人を奪うなんてどうかしてる。彼女をさらった殺人犯も、遺書をわざわざ書かせて、別の場所で殺すなんて頭のねじが十五本ぐらい抜けてる。

 そう思いながら君を探し、走り回った道は、今や私の散歩コースになった。世界一さみしい散歩コースとして自分のギネス世界記録に認定したい。

 君のいない世界が始まってから、一年がたった。君がよく作ってくれたあのスープが懐かしい。勤めていた店にもそのことを聞いてくれたけど、何も答えてくれなかった。

 彼女の存在を消されたような気がして、その返答は絶対に信じることはできない。もう死んでいると報道されたのにあきらめきれない自分。勉強ができない自分よりもよっぽど憎かった。

 私が歩く夜道は、日に日に明るくなっていく。新しい街灯が設置されたり、イルミネーションも飾られるようになったり。映画の撮影が行われたスポットに聖地巡礼に来る人もいる。

 全部、私の心とは逆の方向に向かっていた。

 あの店が所狭しと並んだ裏路地も今は一つの大きな建物になっている。彼女が死んでから噓のように街が変貌を遂げた。まるで彼女の死を待ち望んでいたように。

 洒落た石畳から無機質なアスファルトの道に足を踏み入れると、そこは飲食店が立ち並ぶ道だった。

 ガヤガヤ騒ぐ人の声。
 揚げ物の油っぽい匂い。
 川に面したイルミネーションが集まるスポットで唇を重ねるカップル。

 大きなベルとクリスマスツリーで、今日がクリスマスであることを思い出す。二年前彼女と出会った日も、一年前彼女がいなくなった日も、全部クリスマス。そして今日も、クリスマス。

 彼女が生きてさえいれば、私もあの場所に、あのように存在できたのだろうか。消えかかる自分の存在を認めようと、その場所から足早に離れた。半ば駆け込むようにしてとあるお店に足を運んだ。

 気を紛らわすメニューを探す片手間、マップで居場所を調べると家から数キロメートル離れた場所に来ているらしい。

「ご注文はいかがなされますか」

「日替わりスープとパンで」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 注文を済ませ、窓から外の景色を眺める。と言ってもすぐ下に見える道だが。昨晩の雪で湿ったアスファルトは、ぼんやりと月明かりを映す。

 木目調のこげ茶色に染められた店内には包丁がまな板を叩く音やステンレスの調理器具がこすれる音、ふつふつと何かが煮える音が不規則に鳴っている。
 匂いからマッシュルームが浮かぶ黄色いスープを思い浮かべていると、フランスパンが少しと、専用の入れ物に入ったスープが提供された。

 よく似ている。彼女が作ったスープもこんな感じだった。慣れた手つきで私好みのスープを作る彼女の背中がぼんやりと浮かんだ。

 味も、匂いも。似すぎている。

 視界が滲み、スープが浮かべた波紋で私が涙を流していることを知った。情けない声を店に響かせながら、スープを飲む。サラサラして、飲みやすく美味しい魔法のようなそれは、落ち着かせて涙を止めるばかりか、涙腺の蛇口を壊した。

 先ほど対応したスタッフが私に視線を向けて何やらほかの人と話をしている。そんな恥ずかしさなんてどうでもいい、今の私には思い出す時間が必要だから。

 あの輝かしい日々はもう戻ることはないのに。
 あのかわいい顔を見ることはないのに。
 あの華麗なる包丁さばきを見ることもないのに。

 どうしてここまで鮮明にあの日々を思い出すことができるんだろう。
 今、そこに彼女がいるように、私はあの日々を思い出した。

「どうされたんですか? お話……」

 その声を聴いた瞬間、私の心臓は大きく脈を打った。誰かもわからないのに、一瞬にして冷たい心が体から抜けていく。不思議な感覚に頼って暖を取りながら、言葉を詰まらせたスタッフに向けて顔を上げた。
 私とスタッフの視線が交差する。スタッフは私の視線を追い、私はスタッフの視線を追う。双方の瞳に視線が向けられた。

「君は……いや、失礼。人違いだと思います」

 私が少し間をおいてそう言い、動かず心配するスタッフに言葉を付け足そうとすると、スタッフは口を開いた。

「覚えて、ないんですか……?」

「え?」
 
スタッフは、白い歯をのぞかせながら私に微笑みかけた。

「そのスープを作ってくれた人、覚えてないんですか?」

 違う。絶対に違う。そう私は思い込んで現実にあるすべてのことを否定し続けた。目の前のスープも、目の前の女性も。きっと似てるだけだと。

「悲しいなあ。覚えてくれてないなんて。」

 違う。違う。
 スタッフは私の横においてあったティッシュを手に取り、私の顔に当てがった。どうやら私はまだ泣き続けているらしい。馴れ馴れしいその手を振り払おうとしたとき。

「私の名前は――君の名前を教えて?」

 私の中にあったすべての感情が、崩れ落ちる音がした。今まで積み上げてきた悲しみの感情も、記憶にあったうれしい感情も。堰を切ったように滴る雫は、彼女がすべて下で受け止めている。私の思いを受け止めるように。

「私の名前は――。人違いなんかじゃ………ない」

 私が紡ぎ続ける言葉を、彼女は必死に受け止めてくれた。そして、誤解も解けた。目の前にいるのがそれを証明している。彼女は殺されたわけではない。今もこうして、胸の鼓動を聞くことができる。

 顔を紅潮させながら、彼女は今ここにいる。

 あの日。置手紙を残した日。

 仕事で手を傷つけた彼女は、その日のうちに病院で手に麻痺が残ると医者に告げられた。毎日のようにしていたスープづくりも、できなくなったそうだ。そして、私のために勉強を教えていた彼女の手は細かい動作ができない。つまり、書きながら教えることはできない。

 そのことを私に告げた時、悲しい顔をされるのはわかっていた。そして、悲しい顔を見たくなかったからこうして置き手紙を置いて家を後にしたということ。私の家から見る景色を目に焼き付けようと窓を開けたこと。

 この短時間で実にいろいろなことが判明した。細かい動作ができなくなった彼女はスタッフを雇って、小さなカフェを開いた。それがこのカフェ。

「やることなすこと。全部やりすぎだよ。正直に伝えてほしかった……」

「本当。ごめん。私もああした後、すっごい後悔した。また行動を先にしてしまったって。こんな私いやだよね。別れる?」

「バカか……っ……お前は」

 私が嗚咽に混ぜてそう言うと、彼女は軽く笑い、「そうだよね」と私を抱き寄せた。

「そんなはずないよね。ごめん。不出来な私で」

「そんな不出来な君が好きだから私はああ言ったんだ。そしたら君が『恋っていうのはね、自分が幸せになるもの。愛っていうのは、二人で幸せになるもの。君がいま私にしているのは恋じゃなくて、愛』って言って……」

「覚えてくれてたんだね。あの言葉」

「当たり前だろ。二人で幸せになる前にどっか行きやがって」

 彼女は仕事を早めに切り上げた。今は手をつないで私と一緒に川沿いを歩いている。ひどいことをされても、私は怒れなかった。必要としていたものを、ほしいけどなかったものをやっと見つけられて、怒りの感情なんて出てこない。

 ましてや死んだと思い込んでいた人が今隣で手を握っているなんて、夢のようだ。もしも夢なら、一生目を覚まさなくていい。

「私、こんな手だからスープ作れないんだよね」

「いいよ」

「私、こんな手だから勉強教えられないんだよね」

「いいよ」

「私、考えるよりも先に行動するんだよね」

「いいよ」

「もう! 逃がしてくれないじゃん!」

「逃がすつもりないからな。絶対私と一緒に幸せになってもらう」

 手を一層強く握って、私たちは人気のない場所でキスを交わした。
 私は手が使えなくて落ち込んでいる彼女の励まし役として。
 彼女は私の深い思い込みに対する歯止め役として。
 私たちは、再び出会い、励まし合い、歯止めをかけて。

 多分、程度は違えど同じようなことがあると思う。そしてもう一度このようなことがあっても、離れ離れになることがあっても、きっと私たちはそばにいる。

 クリスマスのイルミネーションに輝く二人だけの指輪が、それを強く示していた。


超短編小説「夜のカフェテラス」完
著者(ペンネーム):遠海 春(とうみ はる)


2023年11月15日追記
新作短編小説です!


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