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諦めるなわたし進め
次女6歳、幼稚園年長児である。
今日は幼稚園の運動遊びを自由に参観できる日。彼女は先生の話をほとんど聞いていないので、前日にこちらから伝える。
「明日の幼稚園は運動遊び会だよー。ママ見に行っても良いかい?」
長女だったら
「ママ見にきてくれるの?!嬉しいー!」
である。
これを期待していた。
しかし次女は無言で首を横に振ったのだ。
来てほしくないとのことだった。
驚いた。
もう一度確認した。
「ママだけじゃなくてみんなのお母さんが見に来るんだけど、ママはいない方が良い?」
「うん」
笑ってる顔が見たかった。
笑ってる顔が見たいだけ。
でもわたしはずっと間違い続けている。
自覚もある。
それがこの結果なのだろう。
ー ー
こういうとき、毎回自分はどうだろう?自分はどうだっただろう?と考える。
今思い返せば、ジャッジされることが嫌いな子供だったような気がする。
父親は忙しい人だったので参観日などはもっぱら母親が来てくれていた。のだと思う。正直覚えていない。母親がいつでも見に来てくれていたのか覚えていない。
と言うのも、母親はわたしに興味がない感じだった。
そういうスタンスをあえてとっていたのか、本当に興味がなかったのかは分からないが、いかんせん3人きょうだいの末っ子ということもあり特に期待なども無かったのだろうと思う。
参観日に来ても、褒めも貶しもしない。感想も何にも言わないし、こちらに聞いてくることもない。わたしも母が参観に来てくれても別に嬉しくもなかったし、かと言って別に嫌でもなかった。参観日にいてもいなくても何にも思わないし、いなくても全く寂しくない。そんな感じ。運動会も発表会も全部そんな感じ。自分自身も、大舞台も正直頑張って取り組んでいる感覚もなかったし、やらなきゃいけないからこなしているという感覚だった。だから思い入れもなければ感動も無い。
今思うと母のそういうスタンスはとても居心地が良かった。
自分のままであるがままでいられた。
自分のことを好きでも嫌いでもなくいられた。
もし父親が参観日などに来ていたらどうだっただろうか。
父親はよく褒めてくれてくれる人だった。
ジャッジされるのが嫌いな子。それは「褒められるのも嫌う」をも含むと思う。感想を伝えることも何かを評価しているように感じさせるのだと思う。
父親はもちろん意識していなかっただろうが、ジャッジする人だったように思う。自分ではそれを押し殺して出さないように接しているつもりでも、声のトーンで分かるのだ。その声はいつもと違うのだ。
「よく頑張ってたね」と褒めてくれても、それはそれは居心地が悪かった。貶された記憶はないのに、とにかく居心地が悪かった。
放っておいてほしい。
自分の気持ちは自由にさせておいてほしい。幼稚園や学校は自分の世界であり自分なりにやっているから放っておいてほしい。大好きな絵を描いているときも、大好きなピアノを弾いているときも同じ。全て自分のものだから放っておいてほしい。上手いも下手も自分が決めてるから。頑張ったかどうかも自分が分かってるから。何も言わないで。感想もいらない。
自分で決めてるから全部。
自分の気持ちや世界は全部自分だけのものだから。
次女もそうなのだろうか?
もしも当時、参観日に父親が行きたいと伝えてきたら、きっとわたしの顔は曇っただろう。「ジャッジされる」。来てほしくない。でも断るのも心苦しい。優しい父親が大好きだったから。
そんな経験をわたしは次女にさせてしまったのだろうか?
ー ー
わたしは次女にとって、
わたしから見た父親みたいな存在になってしまったのだろうか。
大好きな人だからこそ、その人からジャッジされたくない。
わたしはずっと間違えている。
ことあるごとに意識して褒め、感想を伝える。
でも次女の嬉しそうな顔は見られない。
きっと声のトーンで感じ取っていたんだ。
できていない事は、言わなくても良いのに言ってしまう。
次女は悲しい顔をする。当たり前だ。
わたしの父親はそんなこと言わなかった。わたしのダメなところや気になるところについて何も言わなかった。父も母も言いたいことは山ほどあっただろうに。
だからわたしは父とは全く違う。
ただの口出し鬼婆。妖怪だ。
“次女にとってわたしは「わたしから見た父親」“?
とんでもない。
もっともっとタチが悪いものじゃないか。
彼女の世界を彼女の幸せをわたしが壊している。
わたしはいなくなった方が良いのではないか。
消えてしまった方が次女は幸せなのではないか。
そういう考えに行き着いたが、顔を上げた。
「諦めるな」。
次女は褒めてほしい時は自分から言ってくるのだ。
今日頑張ったことを言ってくれるのだ。
そこを絶対に見逃さない。見落とさない。
それだけでいい。
こちらからむやみに感想も言わなくていい。
次女から何か発信があれば答えればいい。
それだけでいい。
手遅れかもしれない。
今にも泣きそう。
でも変わらないと。
笑ってる顔が見たいだけだから。
本当にそれだけだから。
ー ー
参観日、こっそり見に行くことはしなかった。
“そうは言っても来てくれたら嬉しい“
なのか
“見に来られるのが本当の本当に嫌“
なのか
真実は彼女しか知らないけれど。
もしこっそり見ているのが見つかった時、「来てほしくないと言ったのに見に来ているじゃないか」と悲しくなるかもしれない。彼女の尊厳が奪われるかもしれない。大げさかもしれないけど、子どもの言うことを尊重するってこういうことなのではないかと思う。
「わたしの気持ちを伝える」も我慢した。
「見たかったな〜悲しいな〜」とかウダウダ言いがちなので、言わないようにした。何にも言わない。そしてこちらから何も聞かない。
何も言わないってめちゃくちゃ難しい。
母親のことは今も好きでも嫌いでもないのだが、自分が親になってその偉大さが身に染みる。とても感謝している。思う存分好きにさせてくれてありがとう。子ども時代をありのままでいさせてくれてありがとう。
ー ー
幼稚園のママ友が次女ちゃん笑顔で楽しそうにやっていたよと教えてくれた。
良かった。
笑っていたか。
楽しんでいたか。
良かった。
少し泣いた。
次女から何か言ってきてくれたら嬉しい。
わたしはそれを待っていればいい。
いつも。
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