値がつく/2024年春に本を出す(第9話)
きょうは特別に喜ばしいことがあった。
ある書店から、2024年春に出す本の発売記念イベントをやらないか、という打診があったのだ。おまけに謝礼まで提示される。連絡をもらったときに感じた喜びは、生まれてはじめてのものだった。
個人的に活動していることが、社会に認められるという感覚。自分の活動に値がつくという感動。働くということが、今回はじめてわかったような気がした。その書店さんには、ありがたい経験をさせてもらった。感謝してもし切れない思いである。ただいまは編集作業の真っ只中でほかのことは考えられないため、前向きに検討することだけを伝えた。もちろん、受けたい気持ちはある。
まるで芸能人になったようである。わたしの作品に値段がついたのだ。これは喜び以外のなにものでもない。はじめて社会に認められたようである。文を書いて売るということは、わたし自身を切り売りするようなもので、ただ消費されるだけのものかとも思っていたが、そうではなかった。とても素晴らしいことだ。
この本を読みたい人がいる。または、わたしという人間が評価される。それはわたしにとって、こころが震えるような出来事であった。
最初からこういうふうにやればよかったんだろう。大学を卒業して迷いに迷っていたが、今更ながら気づく。こんなにしっくり来ることとは思わなかった。
この社会で評価されるだけのポテンシャルは秘めていると思い15年ほど経つが、これまで一度も評価されることはなかった。はじめて文章を書き、本を出版することで、得た気づきである。動いた(書いた)ことで道がひらかれたといってもいい。どうやら、わたしはモノをつくって、売りたかったようである。
たとえばサーカスでピエロを演じて、道端で大道芸をやって、グラウンドでサッカーをやって、金をもらう。それはいままでのように会社に属し、雇う/雇われるの関係とはまるで違うものだ。そこには、送り手と受け手の一対一のコミュニケーションがはっきりと見て取れる。ピエロも大道芸人もサッカー選手も客から見られるが、なにもそれはただ見られる(消費される)のではなく、演者の表現に観客が感動させられるというものなのだろう。たまたま、そこにわかりやすい金銭があらわれるだけである。単なる雇う/雇われる、払う/払われるという関係とはまったくの別物であった。
この感動はなかなか忘れられないだろう。ただ生っぽく残しておきたいので、ここに記録する。働くということが、ほんの少しだけ分かったような気がした。こんなに気持ちのいいことだったんだ。やっぱり、わたしは表現者として生きていきたいのだろう。
これからも応援よろしくお願いします。