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新自由主義社会における新しい生き方📚202501『生殖記』
久しぶりの読書note、2025年は朝井リョウさんの『生殖記』でスタートです!
はじめに
朝井氏の小説やエッセイはもうずっと好きで、おそらく短編以外はほぼ読んでいる。
前回の『正欲』では、マイノリティと呼ばれる人たちにスポットを当て「結局、マジョリティ側の人間は“自分が受け入れられる欲”や“理解できる欲”しか“多様性”の範疇として認めないのだ」というまなざしを提示した朝井氏。
それを踏まえ、この本を読む前の私は『生殖記』について「あれでしょ?『正欲』でいうところの“正しいとされる欲”を持つマジョリティ側の傲慢さ、みたいなものを生殖本能の視点から書くんでしょ?ハーヤダヤダこれだから朝井リョウはヤダ」とか思っていた。
でも、全然違った。
むしろ、マジョリティ/マイノリティという二元論を超越し、マジョリティ/マイノリティという区別が捨象されるレベルまで俯瞰した地点から人間の生き方を示す物語だったように思う。
『生殖記』は生殖本能の視点から、主人公である尚成の生活(生き方)について語る物語だ。読む前はてっきり恋愛を主軸に書かれているのかと予想していたが、主人公の恋愛の話は全く登場せず、始終「恋愛をする人間」ではなく「仕事をする人間」が描かれる。『正欲』に続いて『生殖記』というタイトルでありながらこちらの予想を裏切ってくるところ、その梯子の外し方が面白かった。
主人公に「ゲイ(マイノリティ)」という属性を付与しておきながらも『正欲』のときと違って人間の性的嗜好そのものは物語の本質ではなく、「ゲイ」という属性を持つ主人公を媒介に「新自由主義社会・資本主義社会の中でもがく人間の新しい生き方を描く」というのがこの本の主題であるように私は受け止めた。
その「生き方」とは何なのか。以下の3つのテーマから読み取っていく。
①自己を商品化「しない」生き方-『死にがいを求めて生きているの』を振り返る-
②暇と退屈の文学から見る生き方
③新自由主義と資本主義社会における生き方
①自己を商品化「しない」生き方-『死にがいを求めて生きているの』を振り返る
主人公の達家尚成は、家電メーカーの総務部勤務、入社十年目の中堅社員だ。
尚成のモットーは、「手を添えて、だけど力は込めず」。上昇志向や成長したいという意志はさらさらなく、痛い思いや辛い経験をしてでも手に入れたいものなどなく、会社に積極的に貢献するようなことはもっぱらせず、ただ、のらりくらりと、波風を立てないように、そのまま時間が過ぎるのを待つかのように、言われたことをこなして働き、日々を生きている。
「何かを成し遂げてやるぞ!」という気持ちが常に漲っているような会社の同僚・後輩の樹や大輔、楓とは対照的な存在だ。
尚成の「生殖本能」はヒトという個体を2回経験し、次のように「ヒトは自分自身を良きタイミングで商品化させている」ということを発見する。
①次世代個体を生み出すことで家族という共同体を拡大させていく
②労働により社会という共同体を発展させていく
③社会の成長や地球全体の改善に繋がる取り組みに挑む
大抵の人は自分を商品化「しない」という生き方を選択できないが、その道を孤独に突き進む存在が尚成だ。
私がこの『生殖記』を読んで感じたのは、朝井氏は『死にがいを求めて生きているの』で提示した生き方を「多様性」という言葉が浸透した世界の中で再定義したということ。
『死にがいを求めて生きているの』で登場人物の堀北雄介は、人間の生き方について次のように語る。
「俺、人間は三種類いると思ってる。1つ目は、生きがいがあって、それが、家族や仕事、つまり自分以外の他者や社会に向いてる人。他者貢献、これが一番生きやすい。自分が生きる意味って何だろうとかそういうことを考えなくたって毎日が自動的に過ぎていく。
2つ目は、生きがいはあるけど、それが他者や社会には向いていない人。仕事が好きじゃなくても、家族や大切な人がいなくても、それでも趣味がある、好きなことがある、やりたいことがある、自己実現人間。
3つ目は、生きがいがない人。他者貢献でも自己実現でもなく、自分自身のための生命維持装置としての存在する人。 つらくても愚痴ばっかりでも皆とりあえず働くのは、金や生活のためっていうよりも、3つ目の人間に堕ちたくないからなんだろうなって。自分が自分のためだけに存在し続けるほうが嫌な仕事するより気が狂いそうになること、どこかで気づいてんだろうなって」
自分自身を商品化する生き方は1つ目と2つ目、尚成の生き方は3つ目に当てはまる。他者貢献、自己実現をすることなく、自分自身が生きていくために生きる。
『死にがいを求めて生きているの』では、この3つ目の生き方にならないよう「人は生きてるだけでいいなんて思ってない」「脱落できない世界の中で生きるしかない」という言葉で、無理して商品化したくないけどしなければ生きていけないという諦念にも似た気持ちが描かれる。
しかし『正欲』を経て『生殖記』で朝井氏が描き出したキャラクターが、なんと3つ目の生き方の中に幸福を見つけ出した稀有な人間!尚成だ。
『正欲』では、自分が理解できる“多様性”しか“多様性”として認めないという人間の傲慢さや無慈悲さを指摘した。
「自分は多様性を理解しているよ、認めているよ」と一見寄り添うような言葉が、「生産性のない人なんていません」というもの。
『生殖記』では、これは優しい言葉でも美しい言葉でもなく、人間が自分を商品化「しない」という生き方は許さないという気持ちが暗に込められた、ヒトがヒトを監視する言葉だと説かれる。
「常に意味や価値を意識しながら、拡大、発展、成長のレースから誰かが一抜けしないよう互いに監視しながら」「ヒトが拵えた構造の中で生きる」
これが、現代社会を生きる人間に課せられた生き方だろう。
しかし朝井氏は、『生殖記』という物語を「生殖本能」に語らせ、現代社会を生きる人間をメタ的に捉えることで「これって実は大変すぎることなんだよ〜〜」という事実をあぶり出し、「ヒトが拵えた構造の中で“生きない”生き方」を肯定するように、「尚成」という人間を描いたように思った。
『死にがいを求めて生きているの』においても、最終的な帰結としてはネガティブなものではなく、言外に「何者にもならなくても、生きがいを見つけようとしなくても人は生きていける」というメッセージを伝えていたように思うが、『生殖記』は尚成というキャラクターを通して、より直接的にそのことを伝えようとしたのではないか。
根底にある変わらないメッセージを時事ネタやその時々の共通言語を織り交ぜつつ、時代に合わせたフォーマットで全く違う物語として提供し続けているのがすごい。
②暇と退屈の文学から見る生き方
尚成の話を進める前に、樹の生き方についても触れておこう。
それまでの経験(共同体との関わり方)から、他者貢献・自己実現という生き方を自然に選択できて踠きながらもこの世界のレールに乗って生きていける人はともかく、「自分自身を商品化する」生き方をしている人の全員が全員、何の迷いもなく好き好んでやっているわけでもない。
でも、その生き方を選ばざるを得ないのは、国が、社会が、会社が、共同体が「成長」を目指して走り続けていて、その共同体に属する者同士が「成長」から脱落することのないよう監視しあっているから。
『生殖記』において、尚成以外の登場人物・大輔、樹、颯、岸はみな「自分自身を商品化する」ことを選択して生きている。
でもその中で「どの共同体に貢献するか」「どのように貢献するか」そして「自分自身で選択しているのかどうか」は人によってばらばらだ。
その中で「好き好んでやっているわけではなく、迷いながら共同体への関わり方を決めかねている人物」として描かれているのが同期の樹だ。(※岸や颯のような人物は、もう放っておいても共同体と同じ原理で動くのでここでは語りの対象としません。)
それまで結婚や子育てに全く興味を示していなかった親友の妊娠の衝撃を受けて、「私の本当に欲しいものってなんだろう」「私が本当に欲しいものって、子どもそのものじゃないのかもね」「私、多分、この正体不明の不安を何か形があるもので埋め合わせたいだけなんだと思う」と悩む。
(尚成の生殖本能は、それが「共同体感覚を手放してしまわないように自分を見張ってくれるもの」と指摘した。)
國分功一郎さんが帯に「これは暇と退屈の文学である」というようなことを書かれていたが、この『生殖記』で書かれている成長を止めない共同体の中で、何か“次”を見つけなければいけない空気感というのは、まさに『暇と退屈の倫理学』の中で指摘されていたことでもある。
人類が豊かさを目指して努力した結果、文明や技術が発達し、人生の時間の中で生きていくためにサバイブするための時間以外の時間=「暇な時間」ができた。人類は幸せを目指した結果、「暇な時間」の中で「退屈」してしまうという事態に陥っている。
『暇と退屈の倫理学』では、この「暇と退屈」にどう向き合えばよいか、ということが語られる。
「共同体が成長を止めない」「人々は自分自身を商品化して生きている」その中で、人はどう生きていけばよいのか。
『暇と退屈の倫理学』の「暇と退屈の疎外論」の章にヒントがある。(めちゃくちゃ面白いので未読の方はぜひ読んでほしい。)
20世紀に爆発的に発達した消費社会において「モデルチェンジしなければ物が売れないのは何故か」という問いに対し、國分氏は「人々はモデルそのものを見ておらず、モデルチェンジしたという観念だけを消費しているからだ」という答えを出す。
消費社会が物を記号に仕立て上げ、消費者の消費を促す。観念だけを消費するから一向に満足が得られないが、終わりなき消費のゲームを続けているのは消費者自身であり、消費者は自分で自分を追い詰めるサイクルを必死で回し続けている、と。
これはまさに『生殖記』で描かれている成長を止めない共同体の中で、何か“次”を見つけなければいけない空気感と似ている。
消費社会において「暇」を埋めるのが「モデルチェンジしたという観念」であるように、共同体において人間は「暇」を埋めるために「自分自身を新商品化させる」。
樹が欲しいものは、形のある特定のものではなく、共同体感覚を手放さないよう見守ってくれる何か。
樹を見ていて思ったのは、自然の摂理で自分の意思で他者貢献・自己実現をするという生き方を選択しなかった人、かつ尚成のように共同体に貢献「しない」という選択も取らない人にとっては、「自分が欲しいもの」の正体(それは別に特定の何かではなく、共同体感覚を手放さないよう見守ってくれる何かであること)に気づき、世間の空気やルールに流されず、自分なりの関わり方で共同体との関わり方を見つけることが幸せなのだろうなということだ。
國分氏は、消費社会において暇の中で退屈することなく「消費すること」を止めるには、「贅沢をすること」「物事を楽しむこと」が大切だと説く。
「周りの人が、多数がそうしているから」という理由で、「自分が欲しいものもこれなのかも」と思っても、そこには「なんか違う」が残るのかもしれない。
それは「多数が欲しがっているもの」という記号を消費していることになるからだ。
(といっても流されて幸せになって結果オーライ☆なことも往々にしてあると思うし、人は選択と正当化と納得を繰り返して生きるものだとも思う。あくまで私の解釈です。それこそ自分の幸せを判断するのは自分だし私は他人の幸せを判断できない。)
このnoteで以前も書きましたが「自分が思っていること」は、本当に自分の意思で感情でロジックで納得して選択していることなのか、思わされていることではないのか、ということに自覚的になれれば、人は楽になれるし自分を無意識に縛っているしがらみからも解放されるのでは、と私は思う。
③新自由主義と資本主義社会における新しい生き方
さて、尚成の話に戻ろう。
尚成がこの生き方・働き方に至った理由は、「均衡、維持、拡大、発展、成長を目指す共同体と、子孫を残さない『ゲイ』という自分の属性とは相性が悪い。自分を苦しめてきた共同体に貢献などしたくない」と悟ったからだ。
また同時に尚成はアルバイトの経験から、「自力で稼ぐことができればたとえ共同体から追放されたとしても生きていける」と確信する。
生殖本能が種の保存を目指すように、その生殖本能を持ったヒトが集まる共同体が拡大を目指すことは、デフォルトで設定された原理のようなものであり、その拡大に寄与することのない「ゲイ」という属性を持った自分は、共同体からすれば「悪」とみなされ追放される。
幼い頃の尚成はそのことを恐れ、「カミングアウト」をしないまま共同体に擬態することを選んだ。
『生殖記』では、共同体が均衡や維持、或いは拡大・発展・成長を目指す根本的な理由として「共同体を構成するヒトの生殖本能が種の保存を目指すこと」が挙げられているが、そのような生物学的な視点に加えてヒトを「社会の一員としてのヒト」と捉えたとき、他の理由として「共同体が新自由主義の原理で動いていること」も挙げられるだろう。
新自由主義とは、国家による経済への介入を最小限にし市場の自由を重視する思想であり、日本では1980年代頃から政策として取り入れられた。この新自由主義は市場の競争により経済成長を促してきた一方で、格差の拡大や行き過ぎた自己責任論という問題にも繋がったと言われている。現代を生きる人間には新自由主義が持つ「成長の欲求」やその結果としての「自己責任」が内面化され、“次”を生み出すことを余儀なくされている。
この仕組みとは折り合いがつかなかった尚成だが、資本主義の世の中で「お金を稼げば生きていける」と気づき、共同体に積極的な介入をしないまま、“会社という共同体”から“自分という個人”にお金を調達することで生きることを決める。
「新自由主義」という仕組みは尚成を殺したけれど、同時に「資本主義」という仕組みの“稼げば生きていける”という側面が尚成を生かした。そのように言えるかもしれない。(1つの側面と書いたのは、尚成はこの「稼げば生きていける」に助けられましたが、上記で書いた「消費社会」の負の側面を助長させているのもまた資本主義だからです。)
そして尚成は物語の終盤で、「あらゆるスイーツを作りまくって食べて、食べた分のカロリーを消費するために運動する」というサイクルを回し続ける生き方を選択する。
「いつか自分という個体と世界の仕組みが合致するような場所に辿り着けますように」と思いながら。
尚成がたどり着いた生き方は、多くの人から見れば「人生、それでいいのか」と突っ込みたくなるものかもしれないが、『死にがいを求めて生きているの』と『正欲』を経て今、朝井氏がこの生き方の登場人物を描いたことそのものに意味があるのだと思う。
尚成自身は「はぁ〜、幸せ」って言ってるのだし。じゃあもうそれでオールオッケーじゃん。
人は生きることに意味を求める。
新自由主義と資本主義という仕組みで成り立っている現在の世の中ではなおさら、「お前の生きている意味は何で、お前が生み出しているものは何だ」ということを問われ続ける人生だ。
でも、尚成みたいな生き方もあるし、自分という個体と世界の仕組みが合致するときを夢見て、意味を求め「ない」生き方をしてもいいんじゃない?ということを、『生殖記』は教えているのではないでだろうか。
おわりに
若林正恭さんの『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』というエッセイ本が大好きで、正確に言うと、若林さんがキューバで経験したあれこれの本編ではなくて、あとがきと解説(DJ松永からの手紙)がそれはそれは秀逸で大好きなのだが、その中で「資本主義や新自由主義が生んだ格差と分断から自由になれる隠しコマンド。それが、血の通った関係と没頭である」みたいな最高の一文が出てくる。本当にこれに尽きると思うし、尚成が選んだ生き方も「没頭」ってことになるのではないだろうか。
私は尚成とは違って共同体に属さなくてもいいかと割り切れる人間ではないし、かと言って颯や岸のようにものすごく積極的な貢献欲求を持っているわけでもないので、自分が決めた共同体への関わり方で関わっていきたい。
自分はロジックに惹かれる人間なので、今回のnoteにおいても「朝井氏が今『生殖記』を書く意味」や「朝井氏の著作の中で『生殖記』が果たす役割」みたいなことが気になって気になって(※朝井氏の著作はもはや小説ではなく、小説の体裁をとった社会学の研究だと思っている)、「自分がどう考えたか」ということを置き去りにしてしまった気がするので、それは気が向いたら別でまとめて投稿します。
それから、本文中で何度か出てきた「尚成って……」という言葉の続きには、「何の為に生きてるの?」とか「目標とかないんですか?」とか「何かやりたいことはないの?」とか、「目の前の相手が共同体のレールから外れていないかの確認」が続くと私は考えていて、そうするとその後の尚成の回答も本の中で表現しなければいけなくなる。
仮に、空気を読んだ「違いますよ」等の言葉では『生殖記』という本そのものが尚成の生き方を肯定していることにならなくなるし、本音で「そうなんです。もう私、共同体に貢献とか成長とかしないって決めたんです」等と言ってしまうと、「お前それは言わない約束だろ!」って世界の根幹が崩れちゃうし、結局その登場人物によって尚成の生き方が否定されることになってしまうので、ここで言葉をしつこく留保させているのは、尚成に対する朝井氏なりの思いやりなのではないだろうか。
最後に、『生殖記』を読んで真っ先に思ったのが、レヴィ=ストロースと斎藤幸平を読まなければならない、ということだ。
新自由主義とか資本主義という仕組みのない世界で人間はどう生きてたの?そういう、偉い人とお金持ちが得する仕組みの中で作られて幸せだとされている婚姻等の制度って結局何なの?どうしてそれに幸せを感じる人間が多いの?なんで共同体に所属したがるの?って気になることがありすぎる。あれだけ話題になったのに『人新世の「資本論」』もまだ読めていない。読みます。