土曜の夜、知性は死なない
ジュンク堂で何気なく入ったコーナー「信田さよ子」書店をぶらぶら見ていたところ、ずっと気になっていた本や持ってはいるけど積ん読本がキュレーションされていて、時おり掲げられている信田さんの手書きポップに目を落としていたら、むくむくと読みたい気持ちが積み上がっていって、何冊か手に取った。
斎藤環さんの本は何冊か読んでいたのだけど、今回『世界が土曜の夜の夢なら』を購入。そこここに紛れ込んでいる、というかメジャー価値観でもあるヤンキー文化を広義に狭義に読み解いていく体験はとてもたのしかった。
続いて与那覇潤さん『知性は死なないーー平成の鬱をこえて』。与那覇さんは『中国化する日本』がベストセラーになった時の人、という印象だったのだけど、その後、鬱病を患っていたとは恥ずかしながらこのコーナーで知った。この本は、「挫折と自己反省の手記」と書かれているように、学術書ではなくて、自身が病気になるまで、なってから、というのを、時代(主に平成)や状況に照らし合わせながら振り返っていくような本。こんな書き方をしていいのかわからないけど、幼少期から教員になるまであたりの記述がすさまじい。過激な事件や事故があったとか、そういう派手なものではなくて、社会の動き・変化に何度も、直接身体の芯まで届くような衝撃を受けていたんだと、読んでいて伝わってくる。外因性による内部の変革を何度も経験したということは、少なからず蓄積していっただろうなと。
この本では、偶然自分が気になっていたことが書いてあったので、ここにざっくりとまとめを。
・人間は「言語」と「身体」に分けられて、言語型の人間は文字通りことばを使って認識を組み立てて行くわけだけど、身体型の人間は、ことばにし得ない感情や違和感などを優先させる。ただ、ひとは2つどちらかに偏っているのではなくて、言語と身体でバランスを取りながら存在している。うつはそのバランスが偏ることによって引き起こされるのではないか。
・書かれた言葉「エクリチュール」は身体を無視して伝播していくので、身体の持つ固有の「ほんとうの自分」ではなく、エクリチュールによって他人に伝わり、「他人にとっての自分」が形成されていく。書くことによって<多様なイメージへとひき裂かれていく作用>のことを、デリダは「差延」「散種」といった用語であらわした。
SNSを使いこなしている人がどのくらいいるのか分からないけど、「書いたこと」によって「ほそかわという存在」がTLに現れ、「書いたこと」だけで「ほそかわという存在」が決まる、と思うと、ずいぶん窮屈だって思ってた。それが、ここに書いてある!と思えたのもよかった。SNSは、断片的に登場することで不在の時間を想像させることも可能だなと思うから、時間的なツールというのは不思議だな。
偶然、ことばで社会と格闘している2冊を続けて読んだ。M-1も終わってしまった。年が暮れていく。
年内に新しいお知らせをします。