美しい泣き顔
つい先日ネット上で泣き顔を見たのですが、それが非常に美しく色々と思い出すことがあったので、今回はそのことについてお話ししたいと思います。
「泣き顔」の話からはじまりますが悲しいお話は何もなく、単なる幼少期の頃の自分の考えに話が逸れてしまいました。
みなさんも、幼少期の頃の自分の様子を思い出してみてください。
先日の出来事
先日、ネットを開いていた時にたまたま
小さな子どもの泣き顔を見ました。
それはそれは美しいもので、心が洗われるような気持ちになりました。
そしてその泣き顔に対し、
「私にもこんなピュアな心も持っていた頃が」といった大人からのコメントが複数寄せられていました。
そこで「私にもそんなピュアな心を持っていた頃があったのであろうか?」ということについて考えてみたのですが、私の場合
小さい頃からゲスい子どもだったなということを思い出し、「両親が可哀想になってきた」という話をしたいと思います。
はぐれた時
よく小さな子どもがお店の中なんかで好きなところへ行ってしまい、一緒に来ていた大人とはぐれて大号泣といった様子を目にすることがあるかと思います。
しかし私の場合
親とはぐれてもしれっと静かにその場で待つという状態でした
泣かなければ声も上げない。
「ここで待っていれば来るだろう」と考えていました。
しかしこれはデメリットが大きく、母親曰く「その場で泣かないものだから居場所を探すのに非常に手間がかかる」そうです。
私としては「来た道をもう一度辿れば確実なのに」といったことを考えていたので、
どこまでもクソ幼児でした。
理屈がある時点で可愛くない子どもだなと感じます。
とは言っても私がはぐれたのは人生でも1度あるか無いかといったところ。
弟なんかは自らどこかへ消えては「お母さんがいなくなった!」と大声で泣いてましたから、母親曰く「いや、自分のせいだろう!」と思っていたそうです。
とは言いつつも、世のお母さんもたまには娘や息子に「いなくなった~」と言われたいものだと思いましたがいかがでしょう(危ないから目が離せないとは思いますが)。
やはり手がかかる子は、かわいいわけです。
〜しているだけで褒められる
静かにしているだけ、鼻をかむだけ、よく歩くだけ。
私の場合完全に「これだけ」パターンで褒められている子どもでした。
静かにしている分人には迷惑がかかりにくいものの
あまりにも存在感がないので、親戚など大人数で集まっていたはずでも写真に写りこんでいる私の姿の大半は、何かよくわからない作業をひとりでしている写真が多いです(大人たちはおそらく話し込んでいる、もはや横にいない)。
ちなみに今現在、
さすがに鼻をかんで褒められるなんてそんなマニアックな話はありませんが、今も私と出かけた人は翌日筋肉痛に襲われるなどして苦しんでいる姿をよく見かけるので申し訳ないです。
あと、
静かなだけの人間はコミュニケーション能力が高い人から見れば単なる足手纏いで、今現在外では「コミュニケーションを取れ!」と、大体怒られています。
幼少期のように、静かにしているだけで褒められたいものですね。
子どもの美しい涙の話から随分と話が逸れてしまいましたが、そういえば「私と出かけた人は翌日筋肉痛に襲われる」のくだりで、ある友達の存在を思い出したので、またそのことについて次回お話ししたいと思います。
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