【我が家の小さな植物園カフェ化計画】植物たちと一緒に学んだこと、あれこれ。というお話【不定期連載】
はじめまして、あらたまです。
二度目以上の御目文字の方、ようこそいらしてくださいました。
今日は日々植物と暮らしていて、気付き、思いを強くしたことについて書いてみます。
我が家には人間と猫と植物(順不同)が一緒に暮らしています。
なんとなく頂いた御縁だと思っていたけれど、責任以外の「なにか」がじわりじわりと沁み込んでいくうちに、見えてきたり実感を得たりしたことが数々あります。
その中のいくつか、特に植物とのふれあいで得た閃きについてのお話です。
ではでは――
拙著の宣伝をプチっと挟みまして、目次をどうぞ。
植物は、逞しく、そして人間が想像するよりも遥かにおおらかで、生きることに貪欲
ラカンマキの根が小さな鉢の中でぎゅう詰めになった時、あれは本当に驚きましたし、どうしたものかと狼狽えました。
いくら物言わぬ生き物とはいえ、数日もしないうちに自ら葉を落とす選択をするのか!と。いや、物言わぬからこそ、あれだけ劇的に危機を表現するのか!と。
猫の感情表現が掴めるようになり、私にも人間以外の生き物との良好なコミュニケーションが取れるぞ(なんなら対人間よりも巧い事やれるぞ!)と、慢心してる場合ではありませんでした。
植え替えデビュー戦の私に植え替えされたラカンマキは、今も明るい窓辺で元気に葉っぱを茂らせています。あっという間に背丈を追い抜いたアボカドを日傘にして、次々に若芽を出しています。
この生命力がね、先ずスゴイと思うのです。
右も左も分からない人間が根を整理し少し大きい鉢に植え替えるのに対し、植物はNoを突きつけることはできません。それこそ、自らの命運を人間に(この場合、私に)任せるしかないのです。
私の植え替えが上手だったか?下手だったか?それについての御意見ご感想の類も、やりたくともできませんよね。
はっきりいって、ラカンマキちゃんにとって生き延びる条件は不利なことが多かったのです。けれどその後、伸び伸びと息を吹き返し何もなかったかのように新しい葉を出し始めるんですから……ラカンマキちゃんと少しは信頼関係を築けたかしら?とは実のところ、あまり思えていません。
それよりも、このわずかなチャンスをしっかりとつかみ、息を吹き返してさらに大きく成長しようとする、ラカンマキちゃんの強さ或いは貪欲さに惚れ惚れしたのでした。
少々の悪環境ならば自らを環境に適応させようとする性質が、植物には有るようです。荒れ放題の無人の庭で、毎年のように花実を付ける多年草の話も聞いたことがあります。
人の世話が無ければすぐにダメになる種もありますけども、外来種問題などを聞くにつけ、植物の生きたいという本能の強さには恐れ入るばかりです。
癒されるのも運を呼び寄せるのも自分都合
――目が疲れた時に樹々の緑を見る。
――嫌なことがあった時には好きな花を買う。
――部屋に植物の鉢を置いておくと開運する。
植物の力を借りて生きやすくなる知恵、というのは古今東西に存在します。お薬もその成分の出処を辿ると植物に行きついたりします。
とはいえ、です。
よくよく考えてみたら、植物はそういったことを全部、悩める人間にのみ知恵を授けようと思って生い茂っているわけではないんですね。
大自然の中では、野生の動物たちも体調が悪いと薬草を食むといいます。
だからといって「最近、狩りが上手くいかないなあ」と悩んで、四葉のクローバーを咥えてみた……という話は聞きません。
恩恵を受けるのも、受けずに流してしまうのも、全ては受け取る側の都合次第なのですね。
植物は人間に対して、
「このようなメリットを授けてやろう!」
とは、言いません。齧ってみて、お肌がきれいになったなあと実感したとしても、それは人間の都合であり植物は美肌に対して何の興味もありません。
ですから、
「見返りを寄こせ!」
とも、言わないのです。
ただ、あるがままに、生きたいから生きている。
その生き様を見たり聞いたり、副産物の恩恵に与ってありがたがっているのは、人間の一方的な反応に過ぎません。
こういう植物のような生き方に倣うと、いつしか謙虚な姿勢というものが尤も自然な形で身に着くのかもしれません。
余談ですけども。
いわゆる縁起のいい植物から運を授かっても、世話をせず枯らしてしまう人が居ます。
けれどそういう植物が、恨み節で夢枕に立ったなんて話はあまり聞かないような気がしますね。大木を斬ろうとして祟られた、という話はわりと耳にしますけれど、そちらはそちらで植物にも真っ正直なタイプが居るんだなあと実に興味深く思います。
森を守ろう、の一歩先とは
自然を大切に。
海に優しく。
森を守ろう。
エネルギー問題や環境問題の導入として、まま聞こえてくるフレーズをざっと挙げてみました。皆様はどのような感情を掻き起こされますか?
私は小学生に上がるくらいの頃から、この類の文言に混じる微かな違和感が気になって仕方がありませんでした。
わからないまま、ずーっと。
この極めて個人的な問題は、植物とイイ感じに暮らすようになって、ようやく一つの仮説に辿り着くことができたようです。
何故、自然を大切にしなければならないのか?
この後、大概の場合「未来の子供たちのために」と続きます。
時に「この美しい風景を未来に繋げるために」と書き換わることもありますが、自然は常に流転しており、生まれるものが有れば滅びるものも同時に有って、それがつまり大自然の営みです。今、私が美しいと思っている風景は未来永劫絶対にそこに残り続けるということはありません。
人間よりも遥かに寿命が長い植物ですら、不死ではないのですから。
つまり、何が言いたいかというと。
自然に優しく在ることに異論はないけれど、回りまわって「今」の人間の都合を「未来」の世界に押し付けているのじゃないか?と思ったんです。
一本の樹が素晴らしいから、少しでも生きながらえて欲しくて。
魚の群れが美しいから、彼らに安心して大海原を泳いで欲しくて。
そういう、シンプルな理由ではいけませんか?
大自然からすると、養老孟司先生が何時ぞやのインタビューで仰っていたように「人間が少なくなってくれるのが一番有難い」というのが本音かもしれません。
それゆえの異常気象だったり、自然災害だったりするのじゃないかしらと考えると、とても寂しく悲しい気持ちになります。
大きな視点で考えて、無力感に打ちひしがれた後。
それに比べて顕微鏡で覗いたみたいな我が家の窓辺に心を戻すと、なんとも言えない愛しさを覚えます。
新しい家族のように迎えた小さな鉢の中の植物と暮らしていると、ただただ嗚呼良かった……と思うのです。
何が良かったのかは問題ではないのです。意味も無く、良かったなあって。それだけで充分なのです。そして、私が勝手に少しだけ元気になるのです。
至って、穏やか。
植物はそこに在るだけだから、私も寄り添うだけ。
ただ「それだけ」で良いなあ、と。
守ったり、恩恵を目いっぱい受け取ったり、他の生き物よりも待遇を良くしたり、そういうバランスのとり方は不要であり無用なのだと思います。
人間ができる事と植物ができることを、自然な代謝でもって繰り返していく……それが共存なのかしら、と。
いわゆる里山の自然が豊かだと言われる理由は、人間と人間以外の動物が植物との共存に成功していて、その代謝によって山や川などの土地全体も健やかに育まれていることによるのかなと思います。
いかがでしたか?
もうちょっと気楽にいけばいいのに――
合理的すぎ、そこ考え過ぎ――
よく言われるんです。まったく自覚がないんですけど。
私としては紆余曲折ありましたけども、それなりに肩の力を抜いて楽しくやってるつもりです。それでもまだ、フルスイングの回数が多いと言われてしまう……まあまあの年月生きた今となっては、すぐにこの調子を変えることは中々難しいものがあります。
自分の家の、ほんの少しの面積を植物園ぽくしてみようと思い立ち、その計画がちまちま進んでいる今。この巡り合わせは、今、このタイミングだったからこその御縁なのかもしれません。
植物の時間を共有して、もうちょっとだけ緩くいくコツを勘所が見つかるかもしれません。
次回は【植物園っぽく。カフェっぽく。ヒュッゲな設えを育ててみる】について書いてみますね。
あらたま
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怖い話を書く時は、名前が変わるよ……
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