英語:資本主義経済の呪い
英語は資本主義経済の呪いです。
私の英語教育に対しての考え方はラディカルでシニカルです。資本主義経済が崩壊しつつある今の世の中にとって、英語はすでにコストパフォーマンスの悪い投資にしかすぎないと思っています。
日本では国家が一〇年以上かけてもものにならない語学の勉強に巨額の予算をつぎ込んだり、親が必死に、例えば年間百二十万円かけて、英語塾に子供を通わせたりしています。そして、結局、子供の誰しもが義務教育+塾での補講で英語をマスターできません。
そもそも、「なんで英語?」なのでしょうか。実は私たちが学校で「英語」を学ばなければならない理由は、例えば平成29年度の『中学校学習指導要領』を見ても、明らかにされていません。
ここでのキーワードは「外国語」です。この単語の裏には常に「英語」という前提が刷り込まれているように見えます。
平成 20 年改訂の学習指導要領は,小・中・高等学校で一貫した外国語教育 を実施することにより,外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め, 積極的に外国語を用いてコミュニケーションを図ろうとする態度や,情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりする力を身に付けさせることを 目標として掲げ,「聞くこと」,「話すこと」,「読むこと」,「書くこと」など を総合的に育成することをねらいとして改訂され,様々な取組を通じて指導 の充実が図られてきた。
面白いことに、この後から突然、今まで曖昧だった「外国語」という単語が「英語」に変化します。
...このため,それらの育成を目指す力について,前述のような課題を踏まえつ つ,外国語学習の特性を踏まえて「知識及び技能」と「思考力,判断力,表現 力等」を一体的に育成するとともに,その過程を通して,「学びに向かう力, 人間性等」に示す資質・能力を育成し,小・中・高等学校で一貫した目標を実
現するため,そこに至る段階を示すものとして国際的な基準であるCEFR1 を参考に,「聞くこと」,「読むこと」,「話すこと[やり取り]」,「話すこと[発 表]」,「書くこと」の五つの領域で英語の目標を設定している。その目標を実 現するために行う後述の言語活動についても,CEFRを参照しながらその内 容を設定している。
なぜ英語?
単純に世界で話している人数が多いから、という答えであれば、英語だけの義務化はやめたほうがいいでしょう。それならむしろ、中国語やスペイン語の話者数が英語より上位です。しかし、私たちの語学環境でこの二つの言葉がメインになることはほとんどありません。本屋さんに行けば、本棚に中国語やスペイン語の教科書が並んでいますが、英語と比べて明らかに日陰者です。
教育の指針が不明であるならば、答えは自分で探すしかありません。私は「日本が開国し世界経済の一部となったときの習慣が残り続けている」と思っています。そのため、英語学習は「資本主義の呪い」と私は位置付けています。
費用対効果がはっきりしていない言語を国家が総動員し、国民の私財を投げ出させるやり方は好きではありません。そのため、もし私が文部科学大臣であれば、一番明快な確認方法を取るつもりです。
それは英語の義務教育をすっぱりやめてしまうことです。「海外に行って学習したい」、「アメリカやイギリス、その他英語圏に行ってバリバリ活躍したい」という夢を持つ子供達であれば、自分で進んで勉強します。学校でプロでもなんでもない、英語に不慣れな教師陣に英語を教えてもらう必要はありません。プロの英語教師に大金を支払って、子供につきっきりにさせる必要はありません。むしろ、そういった「グローバルな」夢を持つように、異文化体験や異なる文化背景を持った他の子供たちと交流できるよう、環境づくりをしていくべきではないかと思っています。語学は自発性が大事ですから。
異文化や異言語に興味を持たない子供たちに無理やり語学を教えても意味がありません。その代わり、英語がなくなった分、その子供達に見合った投資を考える余裕が生まれることでしょう。
現実問題として「子供の語学力が低いと大学や社会で障害になる」と不安であれば、この日本から脱出させて全寮制の海外の学校に留学させたほうが、子供に対する投資として申し分ないと思います。なぜなら、日本の教育では語学能力が十分な人材が育たないからです。そして、そのようなところで、グローバル人材は育ちません。
「グローバル=英語」という考えをお持ちであるならば、それは日本の一種の「共同幻想」、幻覚の類です。「なぜ英語?」というのが繰り返し、こちらで述べてきた問題提起です。
英語はグローバルの一つの形にしかすぎません。その一つの形を絶対だと押し付けるから、グローバルになれないのです。言語から始まるグローバル論では、エスペラント語もインドネシア語もハイチ・クレオール語も等しくグローバルなのです。そこにたまたま英語も並んでいるだけです。東アジアのある国では、そのうちの「英語」だけしか見せていません。
そして、今ではその国では「英語」はもはやグローバルになるためのツールどころか、単なるお客を釣るビジネスの道具に堕落しています。ビジネスの視点では「いかに多くのお客を集めるか」「いかに効率よくノルマをこなし、粗利を稼ぐか」となってしまいます。
産業に立脚した語学学習に意味はありません。このような競争の中で子供に英語が身につけられるのでしょうか。そんなところに子供を放り込んで家族は何を得たいのでしょうか。
そこが考える一つのポイントです。
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