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河合隼雄「無意識の構造」改版 読書メモ

最近、無意識的にという言葉をよく聞いた。無意識とは言うけれど、それはどういうことだろうか?卒業制作を見て周り、学生から「無意識」と言われると訝しんでいたけれど、一度はっきりさせておいた方がいいだろうと思い本書を手に取った。

思いがけないことをしてしまったとき、我を忘れてとか、我ながら何をしていたのか、ということがある。こうした時に無意識的にやってしまったと言う。このような日常のよくあることから難解なユングの哲学に迫っていく。

トラウマによって耳が聞こえなくなった女性の事例からはじまる。機能的に聴力に異常はないため、音は届いているはずであるが声は遮断されているという。治療者とのコミュニケーションを重ねていく中で、トラウマが原因で聞こえなくなったことが判明した。原因は本人も捨て置いたと意識していたものの(つまり忘れていた)辛い経験から聴こえている音を遮断するほどの身体的な作用をもたらした。無意識的に聞かないようになったということ。このような症状のことをヒステリーと呼んでいる。

心理的な問題が身体的な症状に転換しているという意味で、転換ヒステリーということもある。

p.7

本人が辿れないところに、無意識があるのだろう。

無意識に取りつかれた巨人が二人、フロイトとユングについて話題が展開していく。ヒステリー、夢の研究、トラウマ。無意識を探るために催眠が効果があった。

催眠は無意識の探求には大いに役に立つものであった。

p.12

耳が聞こえなくなった女性の症例を通じて、心的な傷が忘却されて、でもそのストレスは強く無意識のうちに追いやられた。思い出すことはなかったが、無意識の中にあるストレスが身体の機能を阻害することになる。こうしたヒステリーの心理をフロイトが解明したという。ヒステリーの原因となる事象を「心的外傷」と呼び、それがもたらす情動を意識の外に置くことを「抑圧」と名づけている。ヒステリーの治療は「心的外傷」を意識下に呼び出すことが重要である。フロイトの夢判断はヒステリーの研究の先にあった。

若いころ認知科学や脳科学を勉強していたころ、会社の先輩からフロイト(ユングだったかもしれない)の催眠について聞いた。催眠と聞いて、かなり訝しんだ記憶がある。そのころは還元主義的に世界や物事をとらえていたと思う。心をプログラミングしたかった。

深層心理学、ユングの観点に沿ってページが進んでいく。

コンプレックスについての解説、そこからエディプス・コンプレックス(エレクトラ・コンプレックス)の解説へと進んでいく。性的外傷を重視したのは父親殺し(あるいは母親殺し)と関連している。それは経験した事実でなかったとしても願望、心象的事実として記憶されていく。

人間の心を意識、無意識などと層構造にわけて考えるところが深層心理学の特徴である。

p.28

私とは何かという問いを立てている。職業、住居、持ち物などによって形成される私、インドの逸話の鬼によって体を付け替えられた旅人の話がでてくる。体をすっかり付け替えられたときに、果たして私といえるのか。

アンリーのプロジェクトは空っぽの殻を示した。そこにアーティストが埋めるものは何か、このプロジェクトは攻殻機動隊も参照していた。すっかり義体に換装された草薙素子の"私"は何を示しているのか。

"私"に向き合うこと。確証ではなく確信としての"私"がある。このことを掘り下げるように"私"から"自我"を取り上げ、人間の行為や意識の主体としての自我を掘り下げていく。自我は感覚を通じて外部を知るし、空腹などの内面なども感じる。そうしたことを経験として蓄積していくが、新しい刺激(それこそ五感で感じる刺激)によってアップデートされる。そうした刺激や経験、欲望に基づいて体を動かす。"私"は自我によって制御されるが、コンプレックスは、その制御に反発するという。

小説『デボラの世界』、統合失調症を発症した16歳の少女の内面世界を描き出した小説、本書では発症の際の様子を引用している。凄まじい描写だが、それをイメージとして理解することはできない。その引用から、フロイトとユングの決別について記述が続く。

精神分析学会の設立に奔走したフロイトとユングだが、二人の理論は離れていった。フロイトは神経症の研究、ユングは統合失調症の研究へと。

ユングは多くの病者に接しているうちに、彼らをフロイトの述べている理論ではどうしても理解できないと感じはじめたのである。病者の述べる妄想や幻覚などの内容を、その人の幼児期における経験と関連するコンプレックスなどによって説明することは不可能なのである。

p.35

ユングは病者が語る妄想が神話と関連性を持つことに着目し、様々な神話、歴史書などを研究した。

病者の語る妄想の内容とそれらのあいだに、なんらかの類比性が存在すると感じたからである。

p.36

類比性について幼児期に読んだ物語が、妄想として表れているのではないかという点を否定する。病気になってから出版されたギリシア語で書かれた神話を示した書物、病者はギリシャ語を読めないし、そもそも出版されて広く読めるようになったのは発症後のことである。

ユングはこのような例から、人間の無意識の層は、その個人の生活と関連している個人的無意識と、他の人間とも共通に普遍性をもつ普遍的無意識とにわけて考えられるとしたのである。

p.36

同時多発的に同じようなことが起こるシンクロニシティを連想するが、神話の類似性を鑑みると、やはり人類が共通して持っている"普遍的無意識"を仮定せざるをえない。これは『ラカンの精神分析』の中でも患者と欲望を交換しあたったとして紹介されていた。

本書では心を図示する試みをしている。ユングが示したレイヤー構造の心、個人として閉じていることもあれば、開いていることもある。開いているとは、人類に共通する無意識のことであり、皆が深層の奥の深いところで繋がりを持っていることを示すようである。しかしながら、治療で向き合う際には、閉じた個人の心というものも見られるという。

人間の内面の表現として言語がある。言葉は、気分や気持ちなどを表すことができるが、ヒステリーなどの場合(例えば、冒頭の耳の聞こえなくなった患者)は、身体言語として実際に身体で表現することがある。その他にも、ものが呑み込めなかったり、消化不良になったり。そして"見たもの"。イメージ言語がある。主観的な体験によるものだから、それがどういう姿形で、どのような色をしていたか言葉で説明するか、そのものを絵で描くしかない。このように主観的な部分を説明できるようにすること。そうした整理をしていく中で、先の心を図示するモデルが二つ存在する。深層心理として閉じた心と開いた心の両面的なはたらきを解説していく。

ブランドはイメージを情緒的に結びつけることに躍起になるが、内的世界との結びつきは、それほど容易ではない。ソーシャルメディアはアルゴリズムによってイメージの結びつきを相対的に容易にしたが、それに対する警告をヒト・シュタイエルがやっている。

イメージは既に述べたような、具象性、集約性、直接性、多義性などを有し、心的内容をわれわれに生き生きと伝えてくれるものである。ユングがイメージと概念とを比較して、前者は生命力をもつが明確さに欠け、後者はその逆になると述べているのは興味深い。

p.47

概念の明確化、コンセプチュアルアートが1970年代に隆盛と衰退をした。ベトナム戦争の様子が初めて写真、映像で伝えられたことによってイメージの力を思い知った。イメージ受容としてのはたらきだったのかもしれない。コンセプトだけになったとき、明確ではあるものの、生命力が失われてしまったのだろうか。フォーマリズムは精神論になったが、コンセプチュアルアートは理論になったのだろう。後期コンセプチュアルアートは、イメージとコンセプトとを振り子のように揺れながら、作品として昇華していっているように思える。

イメージの次はシンボルについてユングに基づいて解説されていく。ユングはシンボルを記号や標識とは区別するという。シンボルを探求する中で、禅の老師の円相を引き合いに出す。心を表す図として円相を示すのであれば、それはシンボルではなく記号とみなされる。ところが円相から心を導くのであれば、それはシンボルになる。
イメージとシンボルは、人間の言語化しえない部分をありありと示す。アカデミックに無意識を捉えるならば、それらを言語化していかねばならないが、先に述べたように言語化する(すなわち概念化して明確に説明する)ことは生命力を失い、無意識の層から離れていくことになるのだろう。

心的エネルギーの捉え方、フロイトはリビドーとして性的なエネルギーが動いているとしたが、ユングはエネルギーの源はリビドーだけにとどまらないとした。ユングの『リビドーの変遷と象徴』がフロイトとの離別が決定的なものとなった。

心的エネルギーは流転していて、自我は心的エネルギーを消費する。消費されたエネルギーは睡眠などで補充される。無意識から意識への心的エネルギーの流れを進行、逆を退行と呼び、一日のうちに適当に繰り返されるという。

とある会社員の治療の話に場面がうつる。勤務先で出世し、課長になった。ところがうまくいかなくなった。根本的な原因はマザーコンプレックスであり、課長になるまでは母親、大学の教授、上司と、自分を導いてくれる存在があった。ところが自分が管理職になると、自分で判断しなくてはならない局面が多くなる。そこでどうしたらよいか分からなくなったという。ここで退行がはじまり、外界に心的エネルギーが流れて行かなくなった。少しずつ進行できるようにするのが心理療法であるという。これが先にも書いた閉じた心のシステムということだろう。

ところで、退行は創造性には不可欠な存在であるという。創造性には相反する事柄の統合が必要であり、自我がそれを見つめていても統合されない。そこで退行が起こっていく。心的エネルギーが無意識界にたまるということは外部から見たら、その人はぼんやりしていたり、ある種の奇行をしていると捉えらるかもしれない。ところが退行したエネルギーが無意識のなかで仕事をし、あるタイミングで統合されたシンボルが生じる。シンボルによってエネルギーの流れが反転つまり進行し、心的エネルギーを得た自我が活動する。

このような心の働きに心当たりがある。まるで、作品の締め切り前のアーティストについてを記載しているように思える。アーティストと対話をし、様々なアイデアをぶつけあい、展覧会を企画していくが、ぱたりと連絡が取れなくなることがある。展覧会の準備がいよいよ大詰めになったときに驚くような作品を見せてくれる。

退行は病的と捉えられてきたが、創造性の発揮に至る重要な働きをもたらすことがある。これはユングの功績だという。そして、退行から逆転して進行させるためには、シンボルが必要である。集団の中にあってもシンボルは力を発揮する。それは生産的な結果をもたらすこともあれば、悲惨な結果をもたらすこともある。シンボルの危険性として第二次世界対戦の事例が引き合いにだされていた。

シンボルによって無闇に動かされないためには、われわれはその意味を意識的に把握する必要がある。ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう。

p.59

シンボルの意味的な理解が重要であるが、合理主義的な考え方によって多くのシンボルを殺し、生気を失ってしまった。合理的な考え方は人間社会に自由をもたらしたが

このようなシンボル殺しによって、人間にとって重要な生命力の一部分まで破壊されたのではないかという反省も、生じてきたのである。

p.60

引用するには長すぎるが、p.60から61はとても重要な示唆を与えてくれる。シンボル殺しによって迷信などを封じ、自然科学の発達を見た。テクノロジーは人間社会に恩恵をもたらしたが、行き過ぎたテクノロジーが、むしろ人間を絶やしてしまうのではないか。宗教学者のエリアーデ『イメージとシンボル』を引用し、シンボル、神話、イメージが人間生活に必要なことであると示している。それらシンボルやイメージを言語化し、科学的に説明したとしても根絶やしにすることはできない。個々人の無意識の中に散らばるシンボル、われわれの全体性としての回復としている。このようなことはモリス・バーマンの『デカルトからベイトソンへ』でも指摘されていた。

二十世紀後半に生きる現代人としての反省は、十九世紀の合理精神が息の根を止めたシンボルやイメージを、いかにして再生せしめ、われわれの心の均衡を回復するかという点にかかっている。

p.60

昔はイメージから多くのことを受け取ることができた。概念化により、意味や存在を言葉として受け取るようになり、むしろ心は脆弱になってしまった。夢は合理主義から置き去りにされてきたが、フロイトの『夢判断』は、そうした合理主義へのカウンターのように働いた。

夜になって眠っているあいだ、無意識は活性化され、その動きを睡眠中の意識が把握し、それを記憶したものが夢なのである。夢は意識と無意識の相互作用のうちに生じてきたものを、自我がイメージとして把握したものである。

p.63

夢の研究、ピエール・ユイグの《Uumwelt》は、"他人の夢を見てみたい"という神谷研究所の研究成果を用いた作品。fMRIによって寝ている人の脳波を計測する。同じ人が図形を見ているときの脳波も計測しておき、深層学習により夢を見ている脳波から何を見ているのかという形を再生(生成)するというもの。この作品を見たのは、岡山芸術交流が初めてだったけれども、ベネチアでもアップデートされた作品を見た

無意識の深層としてグレートマザーを示す。

世界の各地にある地母神の神話のみならず土偶などを示しつつ生命の不可思議さと母なるものとの関連性を示す。観音菩薩、マリア、ヘカテ、世界の様々な女神に話が及ぶ。
グレートマザーは包含する。母は生と死の両面を持ち、善なる女神と同じくらい悪なる女神は世界各地の神話に登場する。ヘカテやカーリーなどの恐ろしい女神として描かれる。善母としての姿が広く支持を受けることを補償するように悪母も語られる。その他に魔女、山姥などが例として挙げられる。そして、善悪両面を持つのが鬼子母神であるという。包み込むような母像と恐ろしい母像とが、誰しもの無意識の深層にある。

西洋人は自我を確立していくうえで内面的な母親殺しが行われるという。日本人は、この内面的な母親殺しを避けて自立をすることが多い。そのことは『母性社会日本の病理』で発表されたという。


死と再生のプロセスが、創造性ということにつながることも、すぐ了解できるであろう。

p.92

フロイトのエディプス・コンプレックスで示したのは個人的な母子関係であり、ユングが示したのは普遍的な母子関係であった。フロイトの示す母との関係は退行によって生じる病的な状態であるのに対して、ユングが主張する母との関係は死に向かいつつも創造性をもって再生に向かうことを示している。

ここからユングの元型(Archetypus)の概念が導き出される。
ユングが重視したのは、概念によって説明されるよりも奥にあるイメージの世界。そうしたイメージは無意識の中に大量に存在するとしている。

原始心像という用語によって、これらのイメージをとらえ、研究してきたユングは、それらのイメージのもととなる型が無意識内に存在すると考え、それを元型と呼んだ。

p.95

原始心像という用語は、ヤーコプ・ブルクハルトから得た。バーゼルに住んでいたブルクハルト、同じく影響を受けたバッホーフェンもバーゼルに住んでいた。ユングも高校生くらいの時にバーゼルで過ごしていた。同じ時に同じ街にあったということは、ロマン的な感傷があるが、今年の6月にアートバーゼルを視察した際に歩いたバーゼルは、それほど大きくない街という印象を持った。ユングと偉大な先人が同じ時を過ごしていたのは、およそ150年前のこと。

元型は無意識内に存在するものとして、あくまで人間の意識によっては把握しえない仮説的概念であり、これの意識内におけるはたらきを自我がイメージとして把握したものが元型的イメージ(原始心像)なのである。

p.95

アーキタイプという文字を見て、真っ先に思い浮かべたのはグッチのショー

アレッサンドロ・ミケーレは意図的か、そうでないかは分からないが、深層の深いところまで降りていっていると思う。

ユングは元型を結晶の軸構造と言っている。

ユング自身も元型に対する誤解を持っていた。研究を進めるうちに元型を様々な形で示すことになる。前述した"グレートマザー"の他には"影(シャドウ)"、"アニマ(アニムス)"、"自己"などである。

元型は明確な概念規定によって把握できるものではなく、あくまで隠喩(メタフォルとルビ)によってのみ、その意味を知ることができるものである。われわれは元型そのものに接近することはできないので、そのまわりを巡回し、それを繰り返しつつその輪をだんだんと小さくしてゆき、自分の心の中にその中心点が浮かびあがってくるように努力するのである。

pp.97-98

元型が意識に入ってくるのは、普遍的な無意識から個人的な無意識(コンプレックス)を経て意識化にやってくるときである。コンプレックスによって元型の力はフィルターされ、ある程度許容される具合になる。コンプレックスの弱い人ほど、元型によって意識がされされる危険を持っている。

母も弟も統合失調症(弟が発症したときは精神分裂病と言われていた。)になった。『デボラの世界』をもっと早く知っていたら、むさぼるように読んでいたかもしれない。コンプレックスが元型の無境な侵入にフィルターをかけているとするならば、母と弟にはコンプレックスは無かったのだろうか。この説が真とは限らないだろうが、やはり深淵はどこまでも深いものであると思わざるを得ない。個人的な興味は人をプログラミングしてみたいという点だったが、いくら機械学習が進展したとしても、言語化できない無意識まではプログラムすることは難しいだろう。なにしろ人間を解剖しても心の構成要素を見ることはできない。

ユングの元型の概念は思弁的にたてられたものではなく、彼の長い臨床体験 - とくに夢分析 - から生じてきたものである。

p.101

影とは、生きられなかった反面であるという。二重引用になって恐縮だが、本書の影の説明は次のとおりである。

ユングは影について、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと - たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向 - を人格化したものである」と述べている。どんな人でも、その人なりに統合された人格として生きてくるとき、そこにかならず「生きられなかった半面」が存在するはずである。

p.102

人生において影がつきまとう。選択されなかったもの、あるいは抑圧していた自分自身だろうか。夢に現れる自身とは別の人格、その影と協同する。言うは簡単だが、意識の奥底に押し込めたからには理由があるはず。分かっているけれどもできない。そんな風に感じるが、事情はそこまで単純ではないように思える。

アーティストと話をするとき、特に若手のアーティストと話をするとき、無意識的にと説明することが多い。話をしているうちに浅薄な具合に気がつく時もあるし、説明を無意識として煙に巻いていることにも気が付く。無意識とは実に恐ろしいものであり、危ないものである。母と弟のことを引き合いに出すまでもなく、安易に身を委ねていいものではない。

影の侵入が思いがけぬときに、強力に行われるとき、その人は発作的な犯罪を犯したり、自殺に追いこまれたりするときがある。

pp.106-107

全くの私見だが、無意識からの侵入を受けたときに、それは何かということを概念化することが命綱になるのではないだろうか。呪術あるいは魔術により引きづり込まれる感覚を言葉によって、かろうじてつなぎとめる。蜘蛛の糸のように現世に戻る糸口なのかもしれない。

影のおよぼす影響としては、二重身あるいはドッペルゲンガーとある。このような症状を引き起こした人の治療は困難であるという。二重人格は今までに報告された事例は百例ほどであり、稀な症状であるという。二重身は、その人がふたつに別れるが、二重人格はひとつの身に二つの人格が入れ替わる。

トリックスターは神話や伝承の中にもよく登場する。トリックスターは変幻自在であり、破壊と想像を生み出すという。

失敗したときは人騒がせないたずら者であり、成功したときは新しい統合をもたらす英雄となるのである。

p.112

どこまでトリックスターを許容できるかによって、古いものの再構築がなされる。しかしながら、トリックスターの力が強くなりすぎると、混乱だけがもたらされる。

影の次の段階に現れるのが異性像であり、男性の中の女性をアニマ、女性の中の男性をアニムスと呼んでいる。そこに至る前にペルソナがある。ペルソナは、その人となりというよりも社会的な役割を示す。制服が象徴的であり、例えば警官は、その人よりも社会的役割の方を先に示さねばならない。

外への適応がよすぎるために、内的適応が悪い人も存在する。そのような人は他人とのつき合いに専念しすぎて、自分の「心」を忘れてしまっているのである。

p.115

カール・ラガーフェルドが自己演出をしすぎてしまい、本当の自分が分からなくなってしまったとしている。自我は外界と同様に、自身の内面世界(無意識界)へも向き合わなくてはならない。

自我、影、アニマ・アニムスの関係。『お伽草子』磯崎の例を引き合いに出す。自我とペルソナが一致していた磯崎の女房は、磯崎が鎌倉での難儀な交渉から帰ってきた際に若い愛人を連れ帰ってきた。女房は嫉妬し、鬼の面をつけて愛人を覗き見る。ここで登場する仮面は、内面と向き合うための仮面であり、このあと愛人を殺してしまう。鬼はこの世とあの世の境界に出現する。また、恐ろしさと破壊性を持っている。ここでの愛人は女房の影である。鬼の面を被るということは内面へと向かい、鬼が象徴するように破滅に向かうということである。

アニマ(アニムス)は、ある男性(女性)の不可解で捉えがたい「心」を表しており、われわれはそれに到達するためには、影の世界を通らねばならず、ここで影の力が強いときは自我は破滅へと向かうことになるのである。

p.122

ユングは男性も女性も両性具有的であると考えるところから出発している。男性的であらねばならない、女性的であらねばならない、という社会的な要請からアニマ・アニムスは抑制される。孤独になったときにアニマが現れる。孤独とは人格変化のいとぐちである。ペルソナによって隠されたアニマ、ペルソナが強ければアニマは息絶え絶えの姿で夢に登場する。

ピエール・ユイグのヒューマンマスクは、仮面を被った猿が福島の廃墟になった居酒屋で仕込まれた動作を繰り返している。ドレスを着て、仮面を被った姿、決められた行動の繰り返しは規律への忠実さを予感させる。同じ動作を繰り返す猿以外の時間は経過している。廃墟化が進んでいく居酒屋、暗い画面は内面世界への沈降を暗喩させる。

アニマが肯定的にはたらくとき、それは、生命力や創造性の根源となる。多くの芸術家が、その内に存在する「永遠の女性」を求めて努力するのも当然である。否定的にアニマが働くとき、それはペルソナをまったく破壊する。多くの人がアニマの魅力のため、社会的地位のみか、命さえ失うこともあるのである。

p.124

アニマはエロスに接続する。自分のアニマ像を投影した女性、そこからエロスへと繋がる。ユングはアニマに四段階あるとしているが、日本人は第一段階の生物的な段階、つまりは肉体的な段階に留まることが多いという。第二段階はロマンチックになり、一個の人格としてのアニマ像となる。このようなアニマとの向き合い方は、"家"の考え方の影響について示唆されているが、長いこと社会風習として繰り返されてきたジェンダーの呪いのようにも思える。第三段階は霊的な存在、第四段階は叡智の存在。第三段階が聖母マリアとして、第四段階がゼウスの娘、鎧を纏った姿で生まれてきたアテナあるいはアマテラスとして例示されている。

西洋文学は、様々なアニマ像を描き出してきた。そうした作品の中で、ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』が紹介されている。この作品の中に登場するヘルミーネがアニマの第四段階に迫るものであると言う。その他のアニマの第四段階の例として、グノーシスの女神ソフィアをあげる。アニマは普遍的無意識そのものであったり、仲介者であったり、ともかく尋常ならざるものである。

「円形劇場」は、まったくこの世ならぬことが行われるところで、狂人のみが入場でき、「尋常の人は入場お断り」であることが、しばしば語られている。

p.129

ヘルマン・ヘッセはユング派の分析家に治療を受けている。二度目の治療が終わった後に発表されたのが『荒野の狼』である。自身の破壊を経て、創造されたのだろうか。

アニマの世界に魅せられたものの陥る危険性も十分に示してくれる。ヘッセ自身の体験もおそらく精神病にまがうほどの体験であっただろう。強い者はそれを生かして、創造的行為をなし、弱いものは、その深淵に落ちこむことになる。もっとも、一般の人はこのような世界の存在すら知らないのが普通である。

pp.132-133

ブライアン・イーノが語っていたことを連想する。

そもそも芸術や文化というのは、個人が「かなり極端でどちらかというと危険な感情を体験するための安全な場所」を提供するものであり、芸術や文化がこれまで受け入れられてきたのはそうした精神状態をすぐにオフにできるからで、さまざまなアートはこういう形で人々にとっての刺激になってきたのだとブライアンは説明する。

https://note.com/polarstar/n/n43c5ad819a8c

男性の中の女性像アニマは単一であるとされるが、女性の中の男性像アニムスは複数あるという。ユング夫人による説だが、本書では母親の役割は単一であるのに対して、父親は様々な職業についているとしている。母と関係のあるアニマはひとつで、父と関係のあるアニムスが複数になる理由として説明されていた。ならば、父母ともに様々な職業についている現代はどのようになるのだろうか。本書の別の箇所には、文化的な無意識についても触れているし、西洋人が影からアニマに到達するが、日本人はアニマに留まるという点を指摘している。緩やかな時代の流れも個人的、普遍的の両方の無意識へ関与しているだろうか。現代にアップデートされた理論を読んでみたい。

アニマがエロスの原理を強調するものであるのに対して、アニムスはロゴスの原理を強調するものである。

p.142

アニマの発達段階と同じようにアニムスにも発達段階があり、力、行為、言葉(ロゴス)、意味と発達していく。言葉の段階では、アニムスを師に投影することが見られるが、この段階のアニムスをひきもどすのは困難であるという。

女性にとって、母性とアニムスとが心の中で葛藤を生じることは多い。アニムスを発展させることは母性を殺すことであり、母性を受け入れることはアニムスを殺すことのように感じられるからである。しかし、この両者を女性は共存せしめてゆかねばならない。

p.144

アニマにせよ、アニムスにせよ、若いうちは異性に投影し、恋愛などをするが、中年になって再度アニマ・アニムスが現れてくると言う。

ここまでを整理すると、社会的な役割としてのペルソナ、自身の中に持つ異性像としてのアニマ・アニムス、そこに至るにはペルソナの半身のような影(シャドウ)が重要な役割を持つ。意識から無意識へは退行と呼び、無意識から意識へは進行と呼ぶ。心的エネルギーを受けて意識が活動でき、外界とのやり取りを行う。心的エネルギーの回復は睡眠によって行われる。夢は無意識の一部を意識が捉えたものであり、記憶されている。フロイトは退行を病的なものと位置付けたが、ユングはイメージとシンボルの世界の無意識から退行し、シンボルによって進行することで、創造性が発揮されるとした。フロイトはコンプレックスこそが、神経病の原因であろうとし、エディプス・コンプレックスとして説明した。ユングは統合失調症患者を多く診ていたことから、個人的なコンプレックスでは、どうしても説明しきれない臨床例をいくつも経験し、個人的な無意識の奥に普遍的な無意識があると仮定し、そこには神話、宗教などで語られていることとの共通性を見出した。二人の巨人による無意識の発見、人体を解剖しても心(無意識)を見ることはできない。夢を全く見ないという人は(実験上は)いない。しかしながら、どれだけ夢を見ているのかは曖昧な点も多い。無意識はあくまでも仮説である。

今日的なジェンダー、LGBTとは距離があるようにも見えるが、本書は1977年が初版ながら、アニマ・アニムスと男らしさ、女らしさについても言及している。

ここで強調したいのは、男性・女性ということが思いのほかに、心理的には相互変換可能なのではないだろうかということである。従って、そのような観点から男性と女性の問題を見直してはどうだろうか。

p.151

人間は心理的には両性具有的であること、身体的には両性具有は、ほぼあり得ないということ。十六人格の症例者の中に現れた異性について、その症例の不可思議について示している。アニマ・アニムス、シャドウだけでは解釈しきれない事例がある。ユングが提示した概念は夢分析から得られたものであるが、そうした症例をどれほど重ねてきたのか。それは想像するしかないが、本書に掲載されている夢の話は、どれも興味深く、示唆深い。

言うならば、人間の意識は両性具有的な方向へと向かっている。これは、まったく自然に反することである。しかし、人間の意識というものそのものが自然に反するものなのである。

p.154

男性と女性の問題は実際いかに生きるかという点に結びつけて考えると、きわめて困難なこととなってくる。人は頭で考えてみるならば、いろいろ勇ましい主張もできる。しかし、いざ本当に生きてみるとなると、むずかしいものなのである。

p.158

男性の中の女性性アニマ、女性の中の男性性アニムス。男性社会の中において活躍し、出世、成功してきた女性はアニムスを発揮する。アニマ性を発揮した男性はマイノリティであるが、数は増えてきたという。夢の中では、同時に女性にも男性にもなる。自我がアニマ・アニムスとの向き合い方を見つけていく。

普遍的無意識の中で最も重視している"自己"。日本人にとってアニマ・アニムスは理解しがたいものだが、"自己"は東洋的思想の影響から体験しやすいといえる。

自己はユングがその生涯をかけて取り組んできた問題とも言えるものであるが、彼自身も述べているように、東洋の思想との結びつきが濃い。

p.161

意識と無意識をも含めた、心を統合する中心(全体性)として仮定されたのが"自己"である。自己について165ページに図示されているが、ここでは閉じた姿で表される。意識の中心に自我があり、それをとりまくような円として無意識がある。意識の輪と無意識の間には、無意識からの流入(退行)を阻むあるいは調整するかのようにコンプレックスがある。そうした無意識の円の中心に自己がある。

われわれは全人格の中心はもはや自我ではなく、自己であることを悟るであろうと述べている。彼はこのことを、「自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものでなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する」とも述べている。

p.164

ここで示される図は、心を閉じた円で描いているが、普遍的な無意識を考えると開いていくという。開くということは、その中心はどこにあるのか、という点が問題になる。自己実現とは(閉じた)自分自身の問題だけではなく、他者との関係性をも含めた取り組みが必要であり、自分だけの成長ではないという。

ユングの定義によれば、自己は無意識内にあり意識化できない。

われわれは自己をそのシンボルを通じてのみ知ることができると考えるのである。自己のシンボルの顕現は、人に深い感動を与え、それが宗教体験の基礎となると、ユングは述べている。

p.165

自己実現について、よくできた話を紹介している。その人一人の行動では説明しきれない、うまくできたこと。
孝行息子の嫁探しの事例、結婚してみたら嫁姑の争いに抑うつ症になった相談者、しかし治療者からみてみれば、親子の独立ができている見事な事例に見えるという。母親が探してきた嫁が母親に反発する。息子は嫁の味方をする。母親にとってはうまくいかないと見えるに違いないが、嫁(あるいは息子も)にしてみれば、親からの独立を果たす自己実現をしていることになる。こうした自己のはたらきというものは、一人の心の中だけに留まらない。自己から見たこのような調整をアレンジメントと呼ぶ。そして、この事例を持ち出したのは、自己の共有性の説明であった。

西洋の合理主義では、心の中心は(意識化された)自我である。それに対してユングは(意識を包含した無意識にある)自己を心の中心として主張した。

西洋人が自我を中心として人格形成をしていることに対して、(やや強引であると断りつつも日本を含めた)東洋人は自我が中心ではなく、あくまでも自己を中心として自我が形成されているという仮説をおいている。自己を念頭に置かない場合、(自我ではない)中心のなさから、日本人の考えることは不可解であるとか、主体のなさ、責任感のなさを指摘されるのである。そして日本人の多くは自己を外部に投影してしまうという。戦争中の日本兵が勇敢でありながら、捕虜になると日本に不利なことも、どんどん協力してしまう。このような不可解な行動は、捕虜になった時に、その投影が壊れてしまうためである。

自己は心の中心にありながら把握することができない。ただ、自己の側面をシンボルを通じて知ることができるのである。シンボルは、退行から進行へと心的エネルギーを循環させるためにも重要な存在であった。

そのシンボルは老賢者、始源児、対立物の合一、自然物などであり、老人と幼児という対立した概念が自己のシンボルとして働くところに、心の捉えどころの無さが現れているようである。ユングは、老賢者との対話を通じて自我とは全く別の意図や方向づけを持った存在が生きていることを実感したという。

老賢者は神話研究のジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』でも、神話における英雄の試練において助言を与える者として説明されている。

対立物の合一。西洋の昔話は王と王妃の結婚によって結末を迎える物語が多くある。日本には結婚が結末となる物語が少ないと指摘している。結婚は男性性と女性性の合一であるが、日本は少ないように感じるのである。

日本人の自我が無意識から独立した存在として確立されておらず、自己との漠然とした結びつきの中で安定しているということと関連しているように思われる。西洋人の場合、一度は分離された自我と自己が、それを結ぶ仲介者としてのアニマ(アニムス)を必要とするのに対して、日本人の場合は、それを必要としないとも言えるだろう。あるいは、日本人にとって、自我の確立した男性と女性が同一の地平において会うことは、ほとんど不可能といっていいのかもしれない。

p.178

ユングのマンダラ(曼荼羅)。著者も述べているが、マンダラと聞いて、最初は眉唾であると捉えた。眉唾であるため、筆者はスイス留学から帰ってきた後、箱庭療法とユングの理論を持ち帰っていたが、あえてマンダラという言葉を使わなかった。ところが臨床経験を積んでいくうちにマンダラの図形が重要な役割を持つことを体験し、重要な要素であるとしている。
マンダラが示す幾何学模様が、自己のシンボルとして働く。

治療の注目すべき展開点に、マンダラは出現してきたのである。ただ、ここでわれわれに解ったことは、マンダラの出現が、その個人が文字どおり自己の存在を確認しえて、それを基盤として新しい立ち直りへと向かってゆく展開点となるときと、それはあたかも敗北してゆくものが最後に頼りうる砦のように出現しながらも、敗戦の勢いを取り戻すことができず、決定的な崩壊へと向かうときがあるということであった。後者のようなときは、内容的にも形態的にも貧困なマンダラが多いと思われる。

p.192

今にして思えば、弟が統合失調症(当時は精神分裂病)と診断されたとき、彼は両手でひたすら円を作っていた。あれはマンダラのようであるが、貧困であることは間違いない。彼は投薬治療によって日常生活を取り戻した。決定的な崩壊は免れたのだろうか。母の場合は高齢ということもあり、統合失調症の症状というよりは、認知症として認識されているように思う。

ユングは自己実現の過程を個性化と呼んでいる。無意識界の元型は共通であるとしても、その現れ方は人によって異なる。内面と外面からのその人なりの個性を獲得していく。しかしながら、それは危険に満ちていると言う。それが他界への旅である。

個性化の道を歩むためには、われわれは自分の内界に目を向けねばならない。しかし、ここにいう内界は、すなわち無意識界である。それは内省可能な領域を指しているのではない(中略)われわれが問題としている内界は、自我によってコントロールできない、あちらの世界なのである。この世界の存在は自ら体験したものでないかぎり、おそらく解らないであろう。無意識の深層における体験にもっともぴったりのものは、昔話や神話などにある他界の話であろう。(中略)他界へ旅立って帰れなかった人、他界から帰ってきたものの、この世には適応しがたくなっていった人の話もある。個性化の道は恐ろしい道である。

pp.194-195

中年の危機として、思春期と同様な具合で思秋期があってもいいのでは、と述べていたが、個性化の道は中年を過ぎてからが多いという。他界を少しでも解説しようとある女性がみた夢の話があり、締めくくりは共時性について説明して、あとがきに続く。共時性は因果律を反転するかのような主張であり、易にも近い相をみることである。

本書を確かバーゼルからの帰り道に読んだ。およそ200ページくらいだが、南回りで地球を半周する時間で読み終えた。高度一万メートルで読んだ他界に至る旅の話は、自分の体の境界がなくなるかのような衝撃を受けた。この読書メモはネタバレがあるが、詳細にまでは触れてないと思う。本書を実際に手に取り(安全地帯において)、それぞれの経験を照らしあわせ体験してみるべきだろう。




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