美少女の美術史展
図書館を歩いていたら「美少女の美術史」展という図録を見かけた。最近ではキャラクターアートと呼ばれているようにも思えるが、確かに"美少女"の存在は日本の表現には欠かせないように思える。こうした性別を取り扱うことは2022年の今日では憚られることもあるが、図録を見た感想をメモとして残しておきたいと思う。
美人画という枠組みを取り払いたくて、美少女展という名前をつけた。本展覧会は、「ロボットと美術 - 機械×身体のビジュアルイメージ―」の続編と位置付けられている。
明治期後半から少女雑誌が出現した。夏目漱石などを参照しながら、概念としての少女について議論を重ねていく。明確な参照項は少女雑誌にありそうだ。その時代に現れた表象を紹介するメディアとして雑誌が機能していたのではないか。
今では出版そのものが憚られるような表現もあるけれど、言葉狩りをしていても仕方がない。認識が間違っていたと知るためには、どのような認識だったのかを知ることも大事だと思う。追認するのではなくて、今日的にはどのような解釈となるのか。話し合いのネタといったら、軽薄に感じるかもしれないが、丁寧に話し合うためには、こうした認識も助けになると思う。
この展覧会が2014年、企画はもう少し前として8年間で世界の認識は変化してきたと思う。
確かに、幼稚園からジェンダー的な教育が出現する。今年13歳の長女の幼稚園はジェンダーに関する教育の転換期に差し掛かっていたように思えた。大学院で研究する前は、文化がフラットになっていくのだろうか、と考えたが、今はそうした考えはない。
こうした問題提起
都市文化としての美少女、人々の暮らしに余裕が出てこない限り、農村部では労働力になる。それでも、平安時代には、丸くてつるんとした人物表現を好ましく思う感性があった。
古い時代は浮世絵の参照から始まる。平安時代の引用があるように大和絵から見直したいとあったが、諸々の事情があったらしい。
浮世絵といえば、エインズワース展で春信を見た。少女に関する記載は春信の、それこそ浮世離れした女性像を取り上げる。この展覧会の展示会場の中で子供の発見というのは江戸時代中期頃であるという解説をみた、天下泰平で豊かになり、子供を愛らしいと認識する余裕ができた、という。
擬人化、じゃなくて女体化、軍艦までがキャラ化される。
「美少女なんて、いるわけないじゃない。」
こうしたコピーを、美少女と大勢が認識する人に語らせる。
明治時代の美少女については、太宰の作品にも言及する。文学作品、雑誌、挿絵などを整理した上で、現代美術へ接続を試みる。
男性が評価し、美人画とはこういうものである。そうした危険性があるだろうとしつつも、それが大衆に受け入れられてきたことを指摘する。あれかわいい、これいいね、といった観覧者の声を封殺してきた、としている。
それは展覧会での大衆の評価はもとより、婦人雑誌の挿絵にも採用されていたことで裏付けている。むしろ、評価する批評家に対する批判だろう。考えてみれば、漫画やアニメは、そうしたカウンターとしても機能していたのではないだろうか。
ピアプロに投稿された、様々な初音ミク、二次創作を指摘している。
ピエール・ユイグのアンリーは、空っぽの少女にアーティスト達が中身を注入するプロジェクトだった。
冒頭の対談では、美少女とは空であり、何かを受け入れる器であると評していた。
Mr.は、今年2022年の春にニューヨークでも展示された。
雑誌の挿絵、広告、アニメ、漫画、フィギュア。BOMEの作品まで参照されている。大量生産品のクオリティの高さ。浮世絵から始まるものの、美少女という概念の文化史として貴重な参照資料であることは間違いない。けれども、冒頭の企画者の対談でも指摘されているように戦前、戦後の美人画として許容された作品は、男性中心による選択であった。先の初音ミクの例を挙げるまでもなく、受容からの裏返し的な現象が起こっている。民主化といえるのか、僕はオープンソース化と呼びたい。
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