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ルーシー・R・リパード『美術の非物質化』 読書メモ

よく手に入れられたものである。

美術手帖の1973年7月号。

国立国会図書館に予約申請をして閲覧に行こうと考えていた。まだ、図書館に自由に入れない。

1960年より前の20年間に特徴的だった反知性的・情感的・直観的な制作プロセスは、もっぱら思考のプロセスに重点を置くようになった。オブジェが単に、結果としての産物に過ぎないものになり、スタジオが書斎と化した。

いま現在、視覚芸術は、一見して二つの源泉から出てきているようではあるが、実はひとつの場所へ向かう二つの道であるということになるであろうその十字路で、右往左往しているように思われる。(P.99)

ここでの二つの道とは、観念としての美術行為としての美術のこと。

情感が概念に変質させられるために物質性の否定が行われ、思考ゲームにシフトした。そして、行為は音、音楽、パフォーマンスのこと。物質的な見え方、感じ方、存在は、エネルギーと時間・運動に置き換えられている。

単色の絵画、もしくはきわめて単純にみえる絵画、そしてまったく”ものいわぬ”オブジェは、見るという経験のもつ二つの側面のゆえに、空間のみならず時間のなかにも存在する。(P.101)

観る人に参加を求める姿勢。そうした作品は、見るための時間を要求している。そこには美学ではなく開放、新しい芸術としての探求。一種不可思議なユートピア思想をあらわしている。

ほとんどのユートピアと同じく、そこに具体的な表現はないのである。(P.103)

美学、美しさに対する人の反応、割符のような答え合わせ的な照合ではなく、確信犯的な美的センス。僕がコンピューター・プログラムを書いていた頃、プログラム・コードに美を求めていた。それは他人には分からない。あるいは分かりづらいし、発注者はそんなことは求めていなかった。恐らく、職人的なプログラマーとしての意識から、そのような行動を取っていたような気がする。

秩序そのものが、そして秩序の含みもつ単純さや統一が、美学的な価値基準なのである。(P.104)

現代アートの研究によって、こうした今までの経験・キャリアといったものが、繋がるような感覚を得た。現代アートの研究はノリのような、そんな役割を持っているのかもしれない。


1973年のこの論考で示されているのは、新しい技術の登場によって変わっていく世界のこと。伝統的メディアの解体。エレクトロニクス、光、音の導入とパフォーマンスに対する姿勢の変化。ジョン・ケージを予言者としているし、デュシャンは最早ベース・ラインとして組み込まれている。基本的な考え方と新しい技術が、”インターメディア革命”という表現に決着している。今風に言えば、イノベーションだろうか。

時間、エントロピーの増大、無秩序。

こんにち、多くの芸術家たちが関心をよせているのは、無秩序と偶然のさまざまな関係を包摂するひとつの秩序であり、ある全体を提示するために、部分の積極的な秩序化をば否定することである。(P.104)

美術の非物質化の証左として、膨大な量の作品と短いテキストを集めている。膨大な量を。

サーチライトの彫刻、言葉を使ったアート

パフォーミング・アートやフィルム、多彩なアーティストが、そうした非物質的な作品を作っている。今で言うミクスト・メディアのことを言っているのかな。これらが非物質化として1970年の初頭に注目された。今では、それほど目新しいものでもない。いや、ここがスタート地点だったのだろう。


ユーモアの要素がきわだっているが、だからといってふまじめというのではない。最高の喜劇は、つねにまじめな芸術である。(P.108)

フルクサスとの違い。ユーモアに近い表現の wit (ウィット)は、もともと精神、推理力、思考力を意味していた。それが、不調和なものを見つけて、賢い、皮肉な、風刺的な言辞をものすようになった。パフォーマンスの観点と相まって、なぜだかチャップリンを連想した。

非物質化した20世紀の芸術の源泉はダダ、シュルレアリスムに求められるという。ここはゴドフリーとは少し違う。ゴドフリーのコンセプチュアルアートでは、シュルレアリスムには、ほとんど言及していなかったと思う。


アメリカに来る前のデュシャンは、形態を解体するということを仕事の基礎にしていた。キュビストの流儀に従い、分解するという希求があり、《階段を降りる裸婦》、大ガラスを作った。

ダダは絵画の物理的な側面に対する極端な異議申し立てでした。それはひとつのメタフィジカルな態度でした。(P.110)

絵画、彫刻の境界も最早曖昧なのかもしれない。ダンスが、その身体的な動きを使い、それは彫刻だという主張があった。けれども、僕は、最近、ペイントだろうと考える。

抽象的・概念的な美術のむずかしさは、観念のなかにあるのではなく、それが見る者に直ちに明らかになるよう、その観念を算出する手段の発見にある。(P.113)

このロジックをきちんと考える必要がある。それが、確信犯的な鑑賞体験へと繋がるはず。


数学や科学においては、説明や公式が単純であればあるほど、より納得がいくようにおもわれるものだ。そしてその目標は、宇宙のおおいなる複雑さを、たったひとつの単純な方程式、あるいはメタファに還元することだ。(P.113)

リオタール、リパードの言う非物質的なもの、それは新技術によって、それまで明確なエリア分けがされていた美術の柵が解き放たれたこと。混ざり合うものと、それでも枠の中に残るもの。そうしたカオスな状況が生まれたという事。単純に非物資的なものとして、電気とか、音とか、情報とか、そうしたものは、70年代に既に実践されてきた。その結実として、1985年のリオタールの「非物資的なもの」展があったのだろうと想像する。




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Tsutomu Saito
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