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ラテンアメリカの民衆藝術と名古屋市美術館のコレクション展

大阪への出張、新年度への切り替わりなどがいろいろあって3か月ぶりだった。KYOTOGRAPHIE を見たかったけれど、一週間前に終わっていた。万博公園の太陽の塔も見られるし、国立民族学博物館で開催している「ラテンアメリカの民衆芸術」を見に行こうと考えた。

ラテンとは話す言葉による分類があるという紹介、イタリア、スペイン、フランスなど、そうした人達が入植した中央、南アメリカとカリブ海の島々のあたりを指している。北米はアングロアメリカと言われている。

まずは玩具の展示から始まる。ペルーには行ったことがあり、おもちゃは見なかったけれど、おもちゃが示しているトラックは見たことがある。雑多に積載された荷物が、よく落ちないものだ、と思っていたけれど、ガイドに言わせれば、落ちているらしい。それを拾って糧にする人もある。
トラックという言葉から連想してもおうと考えたとき、ペルーの子供は、このようなトラックを想像するのだろう。一方で日本の子供は、どんな車を想像するだろうか。
おもちゃによる文化の継承を見せられたような気がした。

嫌いな言葉に「常識で考えろ」がある。最近聞かなくなったけれど、コンサルティングの現場でいちいち確認せねばならないことに嫌気を指した部長が言った時が、一番思い出に残っている。日本語はハイコンテキストであると言われる。言っていることに含まれないことも、話者の間での共通の認識として話される。語順が入れ替わったり、主語が明確になってなくても、なんとなく通じてしまう。システムを開発する場合には、それではとんでもないものが出来上がってしまうので、ロジカルに考えなくてはならない。そうしたことが、件の部長をイライラさせてしまったのかもしれない。

この潮目が変わったなと思ったのが2014年くらいから。グローバル化が大企業の現場に現実の課題として下りてきたのではないかと推測している。それまでは資料は英語しかありません、というと怒鳴られることもあったけれど、英語も対応していかないといけないですよね、みたいなトーンに変わっていった。多様性とは緩やかにしみ込んでくるものではないだろうか。

全5章から構成される本展覧会、1章は民衆芸術としておもちゃや、生活を彩る日常品が提示されていた。装飾が施された楽器、ひょうたんを使ったペンギンなど、思い込みを疑うことを教えてくれる。

第2章は民衆芸術の誕生、レプリカだけどコアトリクエの石像があり、高さは2mを超えるだろうか。その重厚さと存在感に圧倒される。形、大きさ、素材感が、崇高さを作り出している。レプリカだとしても、恐らく時間も感じ取るのだろう。

土着の信仰とキリスト教の布教、ヨーロッパからの入植と奴隷の移入、広大な農地で働く奴隷と支配する領主との間の軋轢などの歴史と、それを伝える作品とが並べられている。二項対立ではない融合、それこそ文化の混入だろうか。カーニバルの衣装などを見ると、対立だけでない何かがあっただろうと思えてくる。

ペルーに旅行した時に聞いた話。スペイン人とインディヘナ(先住民)とメスティソ(スペイン人との混血)があり、ペルーの独立運動を繰り広げたのはメスティソだという。

政情不安の国もある。アヨツィナパ文書、2014年に起きた。アヨツィナパ師範学校の学生43人が警察と軍に拉致された。第4章の暴力の章。

第5章がラテンアメリカ世界の多様性、様々な少数民族の仮面が飾られている。こうした仮面を見ていると、修士論文で仮面への言及に深堀しなくて良かったと感じている。世界で同時多発的に仮面の文化は起こり発展していき、呪術的、祝祭的、芸能的、それこそ様々な用途で使われてきた。仮面とは何か、ということは、修士論文では説明しきれない。かんり文脈を絞ったとしても現代アートの研究論文としてはずれてしまうことは否めない。

フリーダ・カーロの《死の仮面を被った少女》がポスター展示されていた。ほとんど全ての展示品の写真撮影は許可されているのに、ポスターにも関わらず、撮影は禁止されていた。

ポスターはモノクロ(グレースケールだったかな、淡い色合いだったような気がする)であり、実際の作品サイズよりもかなり大き目に拡大されていた。調べてみたら名古屋市美術館が収蔵している。そして、現在開催しているコレクション展で展示されている。見に行こう。


名古屋市美術館のコレクション展、収蔵品で20世紀を振り返ろうという試み

展示は一切写真撮影が禁止、最後に展示されている草間彌生のピンクボートだけ撮影可能だった。美術館の方針だろうか。普段は、写真撮影でメモを取っているが、鉛筆を借りて、出展リストにメモを取ることにした。

コレクションの全体像はともかくとして、とてもいい作品がある。ユトリロの風景画、藤田嗣治、ブランクーシ、モディリアーニ、河原温、荒川修作などの名品、見ごたえのある作品が多数あり、素晴らしいと思うものの、ただ、都会で見上げる星空のような印象を受ける。

フリーダ・カーロの作品と対峙する。
鮮やかな色彩と浮かび上がるような筆致、ポストカードよりも少し大きいくらいの画面、そのサイズ感を超越するような奥行きを感じる。褐色の肌の少女は健康的であり、ただ、死の仮面を被っている。そして、手には黄色の花(葬儀で使われる?)を持ち、このモチーフとして描かれている少女が亡くなっていることを示している。遠景の山と少女が立つ地面とが、どこか現実離れしていて、生と死の中間、日本でいえば三途の川だろうか、そうしたものを想起させる。青空の筆致のひとつひとつが悲しみのように見えてきて、モチーフに同調するというよりは、彼女の世界を垣間見たような気がした。

河原温の《カム・オン・マイ・ハウス》を見られたのがよかった。

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