『自由な学校』の上映会に参加しての感想③――自由であるために大切したい最初の一歩 #058
②の続きです。
“調和的”というキーワード
私が映画の中で気になったのは、要所要所で出てくる〝調和的〟という言葉でした。
単に「自由」と言っても、個人が好き勝手に振る舞うことが自由なのか?
または、世捨て人のように、社会の営みから孤立して生きることが自由なのか?
自由な学校に在る自由は、決して自己完結するような独りよがりな自由ではありませんでした。
映画で子どもたちのやりとりを見ていると、お友達の話をたっぷり聴いてあげる・自分のやりたいことをたっぷり聴いてもらう。
お互いにやりたいことを聴き合いながら、じゃあ自分のやりたいことをほかのみんなと一緒にどうすれば進められるかという視点が随所で感じられました。
少し映画のネタバレをしますが(鑑賞後が良い方はこのチャプターを読まずに飛ばしてください。すみません)、映画の中で卒業式と最後の焚火のシーンが、特に印象的でした。
卒業式では、最後に卒業生が順番にマイクを回して、在校生や保護者に対して言葉を述べていました。ある子は感極まって、なかなか言葉が出て来ません。それを誰ひとり急かすことなく、その子が話し出すまでみんながじっと待って見守っていました。その場の空気のあたたかさに、私も思わず涙が出てきました。
また、映画のラストシーンでのこと。日が暮れる中で、みんなが焚火を囲んで歌を歌う場面がありました。心地よいとてもいい雰囲気。そんな中、誰かが「お化け屋敷しよーぜー!」とそのいい雰囲気を打ち破ります(笑)。「いいよー!」「500円にするかー!」と、えらい現実的な返事も聞こえてきます。思わず、聴いているこちらもニンマリ。この何気ないシーンの中に、自由な学校の空気感が、自由さが、詰まっているように感じました。
まわりの人の自由を認めるからこそ、生まれる自分の自由。
独りよがりではなく、まわりの人たちと調和的にかかわり合いながら、育んでいく自由。
聴き合う文化が根っこにあるからこそ、築ける自由。
“たっぷり聴き合う”――たったこれだけのことなのに、これがいかに重要で難しくて何にも代えがたいものなのかが、上映が終わるころにはありありと理解することができました。
自由な学校を卒業した子どもたちの、その後
上映後は、出演していた子どもたちの親戚のおばちゃんのような気持ちに(勝手に)なって、その後が気になっていました。
監督の齋藤千夏さんがトークショーの中で、TOECらじおに映画『自由な学校』に出演していた卒業生と齋藤監督ご自身が出演されていることを教えてくださいました(2024年3月6日の回)。
「これは聴かねば!」と親戚のおばちゃんゴコロ?に火がつき、上映会の翌日にTOECらじおを聴きました。
映画では当時小学6年生だった子どもたちが、今や高校3年生に成長しており、ちょうど卒業を迎えるタイミング。面影を残しながらも、みんなめっちゃおっきくなってるやーん!と、それこそ親戚のおばちゃんのように感動したのでした。
ぜひ実際にTOECらじおで、みんなの生の声を聴いていただけたらと思います。
小学校から中学校に上がったときのギャップや戸惑い、中学校でも取り組んでみた“聴き合う”こと、それぞれのこれからの進路、映画『自由な学校』のことについてなど、率直に話してくれています。
胸がじんわりじんわりあたたかくなるような時間でした。なぜか関係者でもないのに、達郎さんと同じくらい涙が出ました。
子どもも親も自由であるために、今できる最初の一歩
自由とは何か?――それを考えるうえで、トークショーの最後のほうに齋藤監督が示唆に富む話をしてくれました。
たとえば、森の中の自然豊かな園。
環境はとても自由だけれど、もし子どもたちがやりたいように遊べないとしたら――それは、心は自由じゃないのでは?
一方で、環境や行動は不自由だけれど、心は自由であることはできるのでは?
それを聴いて、あぁ本当にそうだな、と思う自分がいました。
感想①で最初にくすぶっていた問い。
制服がないことが自由なのか?
時間割がないことが自由なのか?
宿題がないことが自由なのか?
もちろんそういうのがないことも自由だけれど、それよりも本人の心が自由であるのかどうかが、とても大切だなと思いました。
子どもの心が自由であるために、親の私ができること。
まずは、娘のやりたいことをたっぷり聴いてあげること。
上映後に、帰って早速娘の話を聴いてみることにしました。
いつもより時間をかけて、本人が話したいことをゆっくりたっぷり受け止めるように。
すると、娘は「今度はお母さんのやりたいことを教えてよ。映画観に行ってどうだったの?」と、逆に聴いてくれました。
たっぷり聴いてもらえた経験があるからこそ、まわりの人のことを聴くことができる。
さっき映画で観たようなやりとりが起こって、私もビックリでした。
ふだん、忙しさに追われて、なかなかたっぷり聴いてあげられる時間が取れないけれど、こういう何にも代えがたい時間はしっかり取っていきたいと思いました。
最後に
映画を鑑賞しているとき、私は不思議な感覚をまとっていました。
子どもたちに混ざって思いっきり氷鬼したいなぁとか、自由な学校のテーブルにはいつも季節の野花が飾られていて私も一緒に摘みたいなぁとか、保護者の方がイベントで全力で走っていて私も一緒に走りたいなぁとか、親もいろいろ聴きあう時間の中で過去の心のかさぶたが痛くなったりして私なら泣いちゃうかもなぁとか、自由な学校のスタッフさんがケタ違いの愛で子どもたちに接しているのに触れて一緒に思い切り泣いて笑いたいなぁとか……etc.――観ている側なのに、まるでそこに居させてもらっているような感覚がありました。当事者として、自由な学校のどこかに居させてもらうような。
それは、きっと齋藤監督が撮影する距離感が信じられないくらい近くて、観ている側がその場にいるような感覚になるくらい、彼女と出演者との心の距離が近かったんだと思います。こんな距離感で撮影されている映画は、今までにないんじゃないかな。まさに彼女にしか撮影できない『自由な学校』がありました。
この映画『自由な学校』は、ひとまず今年10月までの上映でいったん区切りをつけられるとか。監督ご自身がとても丁寧に届けてくれる作品。きっとお近くの地域でも、上映される機会があるんじゃないかなと思います。
少し遠くても、聴くように観る価値があると思いますので、興味のある方はぜひ足を運んでみてください。ちなみに私の隣に座っていた男性は、上映会のために大分から広島まで来られて参加されたそうです。上映会場で想いを持って来られた方々に出逢えるのも、この映画の素敵なところだと思います。
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*上映会のスケジュールは、下記インスタでチェックできます。
*上映会&ダイジェスト版はこちら
広島には、もう一度秋に上映会で来られるとおっしゃっていたので、次回は夫も一緒に聴くように観れたらと思っています。
他の方とも、いつか上映後の感想や思ったことを自由に聴き合えたら嬉しいです。そんな機会を楽しみにしながら。
最後になりましたが、広島で上映会を企画してくださった、ひろしま自然学校のみなさま、貴重な機会を本当にありがとうございました!