『ゆめみるけんり』vol.5への寄稿を募集します

わたしがいちおう主宰する“翻訳詩と生活のzine”『ゆめみるけんり』の最新刊(vol.5)を来年にかけて制作します。これにあたり、寄稿してくださる方を広く募集しています。

『ゆめみるけんり』は、まず工藤が「はじめに」の素となるテクスト(下記「募集要項」参照)を寄稿者の皆様に送りつけ、そのテクストへの共感や反発、そこから考えたことを起点に創作を始めていただくというやり方で制作しています。

『ゆめみるけんり』についてはHPをご覧ください。→https://droitdeyumemir.blogspot.com

ご興味ある方は、ご遠慮なく次のメールアドレスまでご一報ください。みなさまの共謀をお待ちしています。→droit.de.yumemir[a]gmail.com (送信時[a]→@に変えてください)

[ゆめみるけんり vol.5 募集要項]

☆特集:「私からはじめる」(仮)
☆寄稿締切:2021年3月(予定)
☆募集作品:まずは特集テーマに関連する/しない翻訳詩・テクストでの寄稿をご検討ください。その他テクストやその他の形式による創作なども歓迎します。翻訳作品の場合、著作権に注意してください。
☆注意事項:寄稿者には、印刷費として数千円のご協力をいただく場合があります(未定ですが、既刊では3〜5千円ほど)。寄稿作品の著作権は、各作者・翻訳者に属します。

☆特集:「私からはじめる」(仮)に向けて

「けれども、私が欠けたら民衆は不完全だ」*

X月X日。感染者数XX人。死者XX人。

この年に私たちはみな自粛を経験することで、一度零地点に、「自分ひとりの部屋」に、戻ることになった。予定していた生の歩みが止まった。いまいち実感のない薄い死が至るところに澱み、わたくし事に大義を優先することを強いられた。それが必要であることは分かってはいるけれど、どことなく腑に落ちない感覚を誰しもが持ったのだろう。だからだろうか、説明し脅かす言葉は氾濫し、何もわからない時に、せめて何も言わないほどの倫理を持つことがないまま、無自覚に傷つけることをやめない。そうした言葉たちが私たちの感覚の上辺を撫でることもあったが、結局は一瞬で消えていった。

しかし、何かを「言うとき、命令の言葉と、契約の言葉と、説明の言葉しかないのだろうか。そんなことはないはずだ」**という信念を共有するとき、私たちにはもう一度始めることができる。もう一度、何ごとかを言うことができる。そんなはずはない、こんなものであるはずがない、と。遠くの他人に石を投げるよりも前に、例えば、隣で眠る人に毛布を掛けてやることが、私たちにはできる。行為で。言葉で。ただ居ることで。

そしてもう一度始めようとするならば、今・ここから始めるほかはない。つまり、わたしから始めることだ──わたしが触れ、見、聞き、嗅ぎ、味わうような距離(ディスタンス)零cmのわたしの世界、つまり身体をもう一度感じてみるところから。わたしであることは難しい。けれども、この小さな部屋にわたしが確かに在るのだと、それを確信してはじめて、そっと手紙を出すように、窓を開けるように、もう一度わたしには理解のし難いもの、つまり他者に出会いにゆけるのだろう。

他者と出会うことは、危険でなかったことがなかった。だから私たちは挨拶を発明し、握手を、キスを発明した。リスクを取り交わすことで、他者は他者のまま、隣り立つ人になり得てきたのではなかっただろうか。そして時に、その隣り立つ人が、窮極的には他者であることは変わらないながらなお、いや、そうであるからこそいっそう、自分が自分であるために欠かせない存在になることもあった。そして時に、私たちはそれを愛と呼ぶことがあった。

私たちはお互いに一人であり、一人であり続けながら、その一人どうしが変わり、変えてゆく──その「間」に成り立つ一人ならざるもの、一人からすこしはみ出る隙間が社会と呼ばれる。あるいは、その空隙を埋めるものを、想像力と呼ぶ。私たちはいつまでも諒解しつくしてしまうことがないし、そのことをどこかで望んでもいる。「変えられないものを受け入れ(……)受け入れられないものを変える」***こと、永遠のその妥協と闘いと調整、それを通してでなければ社会は成り立たないのではなかっただろうか。

変わることへの勇気と、変えることへの勇気。それが欠けた時に、私たちは他者を迎え入れることをやめる。そして他者を迎えることがないとすれば、わたしはわたしであることをやめることがない。しかしそれでは生に満足できないことを知っているからこそ、私たちは他人と出会うのだし、景色を眺めるのだし、外国語を学ぶのだし、映画を観るのだし、文学を読み書くのだし、料理を作るのだし、SNSをやるのだし、歌を聴くのだし、働くのだし、絵を描くのだし、写真を撮るのだし、酒を飲むのだし、服を着るのだし、化粧をするのだし、神を信じるのだし、詩を読むのだ。分かりみを受け取り、そして分かりみをなお超えたところにこそ、わたしに迫ってくるような生きていることの実感がある。というような実感がある。

世界は変わったし、変わりゆくが、私たちも変わってみたい。しかし変わる時の私たちは、いつだって私たちのままだったね。いつも私たちは私たちから始めたのだったし、それ以外に始めようがなかった。これからもきっとそうだ。それは変わることがない。いつもまたここから始めよう。ここ──つまり、「わたし」から。

(引用)*アンドレイ・プラトーノフ「年寄りの機械工」(1940)より。文脈に即せば「ところがわし抜きの民衆なんて不完全なものさ!」というほどの台詞。**立岩真也『ALS:不動の身体と息する機械』医学書院、2004、p.148。***宇多田ヒカル『宇多田ヒカルの言葉』エムオン・エンタテインメント、2017、p.68。

『ゆめみるけんり』は、このvol.5をもって、第1期としては一度締めくくります。このため、制作には気合を入れます。共謀をお待ちしています。

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