『文藝』2024年秋季号のアンケート企画に参加しました
河出書房新社のMさんから締め切り3日前に依頼をいただき(ヤバい)、『文藝』2024年秋季号・世界文学特集のアンケート企画に参加しました。
補遺として、回答したものへのリンクなど貼っておきます。
③いま注目している作家
期待に添えなくて申し訳ないのですけれど、わたしはほんとうに本をあまり読まないので、広く表現者として下記の3人を挙げました。それとは別に、2022/2/24以降ロシアの文学に触れても戦争の事実が頭を離れず「トカトントン」って感じになってしまって困っています、同じ特集に奈倉さんがいてくださってよかった。
ニコライ・コミャーギンさん(Shortparis)/Николай Комягин
「現代のロシア人の声」と言ったとき、たぶんヒップホップの声を想像される方も多いでしょう。しかしわたしには言語を問わずヒップホップとそのカルチャーがぴんと来ないということがあり(ぴんと来るきっかけがなかっただけのことでとても残念)、そのあたりは松下隆志さんの素晴らしい記事をぜひご参照ください。わたしは高校生の時からずっとニューウェイヴの民で、ShortparisがDepeche Modeやインダストリアルの影響を窺わせるアプローチを取っていることをとても嬉しく思い、ずっと片耳で追いかけています。コミャーギンさんのクィアな立ち振る舞いとヴォーカルには新しい時代のアイコンとなりうる存在感があります。
今後、ウクライナへのロシアの侵略もいずれは必ず終わり、どのような形であれ「終戦」が訪れるはずです。そうしたときに、ロシアの文化は、ロシア語は、どのように戦後のトラウマに取り組んでいくのかという問題にわたしは関心があります(もちろん、「日本人」がこのようなことを問いかける資格があるのかどうかは別の大きな問題としてありますけれど)。そのようなことを考えたときにも、Shortparisは大きな存在感をもって現れてきます。次の動画は、ロシア社会が抱えるトラウマをテーマとしたライヴ=パフォーマンスの様子。これほど大きなものを背負うとする、いわば覚悟を考えるとき、Shortparisを単に「バンド」として――どの曲がいいとか歌詞がいいとかというふうに――評価することはわたしにはできません。まして、侵攻が始まってたぶん今もなおロシア国内に留まりつづけるその「強さ」という言葉では言い尽くせない強さ、しなやかな強靭さを目の当たりにした今となればなお。
最新のパフォーマンスでは、ずっとスキンヘッドがトレードマークだったコミャーギンさんが髪を伸ばしている(しかしやはりクィアみがある)とともにパンク系のアプローチに移行しており、今後の展開も注視したいと思います。(歌詞は現状維持にしか興味がない中流階級を刺すもので、「15(ルーブリ)でなく20が欲しいだけ」と叫ぶ労働者ソング「20」から態度が一貫しており本当に信頼できる)
ちなみにロシア(東欧諸国)のインディー音楽についてまとめてくださっている下記の方々(一例)、本当にありがたい存在です。これからも応援しています。
余談ですが、わたしのわりと好きなバンドでSamoe Bol'shoe Prostoe Chislo(Самое большое простое число, или СБПЧ;最大素数の意)という人たちがいるのですが、かれらは2022年11月に「もはや何一つない」という曲/アルバムを出していて、個人的にはそれがすごいというよりは、このようにおしゃれでウィットのあるインディーポップバンドがこういう曲を書かざるをえなくなった状況の悲劇を思います。ともあれ、「Zloj(悪い人)」(2019)はPVも含めてとにかく名曲だからぜひ聞いてほしい。
ヴラジーミル・コシェレフさんとFLAGIプロジェクト/Владимир Кошелев и проект «ФЛАГИ»
こちらをどうぞ
イリヤマゾさん/ИльяМазо
こちらをどうぞ。動画は、ft. Sinekdokha montokの曲?ポエトリー。
いま振り返っても、Calvert JournalとColta.ruは本当に貴重なカルチャーの情報源でした。ウクライナ侵攻の後、これらのチャンネルが失われたことは本当に悔しいし、プーチンとかいう人は自分のやったことの取り返しのつかなさに地獄の果てで気づいてほしい。
④いま日本語に翻訳されてほしい作品
Nikolaï Maslov “Une jeunesse soviétique” (Denoël, 2004)
これは絶対に翻訳されるといいと思います(というか翻訳したいのでよろしくです)。
ニコライ・マスロフさんは1954年にノヴォシビルスクで生まれ、2014年に亡くなっています。独学によってバンドデシネを描きはじめ、生涯に3冊、いずれもシベリアを主な舞台とする作品を残しました(“Une jeunesse soviétique = ソヴィエトの青春”、“Les Fils d'Octobre = 十月の子どもたち”、“Il était une fois la Sibérie : Le Paradis des hommes = 「昔むかしシベリアで」三部作より「人間の楽園」”)。いずれもフランスで出版、英語やスペイン語などいくつかの外国語に訳されていますが、ロシア語版は現時点で存在しません。とりあえずわたしが読んだのは“Une jeunesse soviétique”だけですが、「ロシア」を語るときにシベリアや地方のことを視界から外したら大切なことを見誤るぞ、とつねづね思っているところがあり、ロシアの地方の視点からロシアの社会が浮き彫りにされるこの語りは本当に貴重だと思います。泣きたくなるほど絶望的で、出口がなく、しかしところどころで言葉を失うほど美しい切実な作品です。
ロシアには「独学」表現者の系譜というのがあり、ロシアの「独学者」を舐めてはいけない。そこにはプラトーノフやヴェネディクト・エロフェーエフやカネフスキーやドミートリイ・バーキンなどが含まれます(含まれると勝手に思っています)が、マスロフも確実にこの系譜に連なります。こういう突然変異・根無し草タイプの表現者が前触れもなく現れて突然「世界の真理」を語りだす可能性がある限り、やっぱりロシアは面白いことをやめない。シベリアの歴史をめぐる野心的な三部作を構想していた最中に亡くなったことはとても悔やまれます。
なお、この作品を大きく取り上げているロシアのコミックに関する研究書José Alaniz “Komiks : Comic Art in Russia” (UP of Mississippi, 2010)もオススメです。
「Фレター」(isolarii, 2020)
こちらをどうぞ
isolarii、すごく親近感をもっているのですが、他の本の翻訳企画が権利関係でポシャってしまったので、翻訳はしたいけど難しいかもしれません。関心ある方はどうにかして原本を入手されるとよいです。
キラ・ムラートワ(Кира Муратова)の映画
すごく前の記事になります、たぶん誤訳などあり、恥ずかしいですがこちらをどうぞ
蓮實重彥さんの書き物はよくわからないことが多いのですが(わたくしの頭が悪いから)、何しろ90年代に川崎市市民ミュージアムなどとともに「レンフィルム祭」を企画・実行されたことは伝説として語り継ぎたい(わたしが生まれる前の話ですけど)。振り返ってみれば本当に奇跡のような企画だったし、いまだにミニシアターでかかるロシア映画特集はこのときの遺産(具体的に言えば日本語字幕付きプリントとか)に依存しているように、部外者としては感じます。レンフィルム祭のおかげで、日本ではヴィターリイ・カネフスキーの主要な3作品をすべてDVDで観ることができるまでになりましたが、わたしの知るかぎり、ロシアでもフランスでもDVDは出ていないのです。
キラ・ムラートワの字幕付きプリントが数点日本に現存するのは上記映画祭(1992)だったり、「ソビエト女性映画人週間」(1991)、西武系の「キネカ錦糸町」などのおかげなのだろうと思います。文化は積み重ねであって、その積み重ねをすべてご破算にしたプーチンとかいう人は地獄の辺境で己の内臓をことごとく(以下略)
彼女の映画をすべて見たわけではないし、専門家ではないので日本で紹介することの意味とか正確に評価はできないのですが、なんとなくレトロスペクティヴをやらなきゃいけないんじゃないか?という使命感に似た気持ちを持っています。数年前にアテネフランセにお尋ねしたところ、現在上映に使っているフィルムは劣化のためそろそろ寿命が来そうとのことでした…。
以上、補遺でした。なにか引っかかるものがあったら嬉しいです。ちなみに蓮實重彥さんといえば、筒井康隆さんとの対談・書簡・批評集『笑犬楼vs.偽伯爵』(新潮社、2022)、最近読んだんですけど、とってもよかったですね。不良老人っていいですよね。